がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

消えた接骨木谷中官有地


以前「消えた藤荷田村」というタイトルで、那須野ヶ原公園の南口近くの分譲地の石仏群を紹介したことがある。



この記事の中で、俺は特に調べもせずこの石仏群を、現在競馬教養センターがある場所に存在した藤荷田村の住人が建立したものだと結論付けていた。近くの藤荷田山には藤荷田村の愛宕神社があり、居住地区から離れているがそう考えるのが妥当だと思ったからだ。



しかしそれは間違いだった。この石仏は足尾銅山鉱毒汚染で明治37年11月に集団移住してきた谷中村の人々5戸が入植した際に、生まれ育った故郷から一緒に持ってきたものなのだそうだ。きっと碑文をちゃんと読み込めばわかった?

明治33年の川俣事件、翌年の田中正造による直訴で鉱毒問題がクローズアップされる。被害民の鉱業廃止要求に対し、政府は洪水がなければ被害は広がらなかったとして遊水地を設置するため、土地の買収、住民の強制立ち退きを行った。移住先は県内外のさまざまな土地で、栃木県北では寺子、前原、接骨木、北金丸、下河戸、鹿子畑、下江川志鳥など。

接骨木谷中官有地は21町歩を明治39年11月払い下げを受け、翌年から開墾が始まった。接骨木官有地は山林の石ころだらけの土地で、60尺(18m)掘らないと水脈に達しないので井戸を一つ掘るだけで数百円掛かったという。大枚はたいて掘った井戸も冬場は枯れ、近隣を流れる那須疎水・蟇沼用水も配分の許可を得られず、2キロ離れた蛇尾川上流まで水を汲みに行かなければならなかった。桑・大麦・小麦・陸稲などを栽培したが、大正9・10年の恐慌で主産物の価格は下落し、肥料代の支払いが困難となった。せっかく得た開墾地も肥料代に売り渡していった。副業で養蚕と菅笠・炭俵編みをしてようやく生活する状態で、自分の土地は耕作できないので植林地にして、三島農場や松方農場に小作として働きに出て日銭を稼ぐしかなかった。大正10年頃の現地調査報告書にも
「また元の谷中に帰るか、という状態にあり、しかれどもせっかく20年近く骨折りたるこの土地を離れ 他に出るは実に悲しき事なれば、何とかして少量の水の分配を得たき旨述べ居り、実に気の毒なる有様なり」
と書かれている。最終的には借金が返せず土地を失い、この地を去るしかなかったようだ。
那須野ヶ原に移住した旧谷中村民は、借金などで土地を手放し小作農となり戦後の農地解放に救われた者が多かったようだ。県北でも例外は北金丸で、扇状地の端なので10尺(3m)も掘れば水が出てくる恵まれた地理的条件のため、順調に入植し開墾することができた。

参考
藤岡町の歴史 > 谷中村 記録からよみがえる姿
栃木県史 近現代5