がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

会津中街道 板室から木綿畑を歩く1

定例の会津中街道歩き、今回は板室乙女の滝ドライブイン駐車場からスタート。
トイレ裏の道跡を林の中に入っていくと、すぐに道の両脇に塚が現れる。板室(井戸沢)の一里塚だ。

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東の塚は炭焼き窯に使ってしまったそうで、大きくえぐられている。窯の名残の石積みがあり、この廃道を作業道として使っていた時代を偲ばせる。

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西塚は健在であるが、今では何本もの木々が茂っている。

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旧道跡は小さな沢を渡り、崩壊した岩場の脇を通って次第に沢に下りてくる。上流に乙女の滝の在る沢名川(井戸沢)だ。道跡の先の渡渉点は渡れそうもないので、今回もちょっと川上の部分に倒木を掛けて橋にして渡った。

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倒木をノコギリで切り運べる大きさにして橋を渡す。ちょっと冒険っぽくなってきた。川向こうは舗装道路県道266号と合流する広めの作業道になっている。薄い霧雨が時より降ってくる。天気雨だ。空中に漂う飛沫がキラキラと輝く。

板室本村の集落に入る。今でこそ板室といえば塩澤の板室温泉をいうが、本来の板室はここだ。かつては小笠原畑の西の元屋敷と呼ばれる場所に集落があったが、元禄8年の会津藩による会津中街道の開削により、数百m北の街道沿いに移り宿場を形成した。この際に会津地方からも移住があったという。

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集落の北端山際に板室本村の大日堂がある。中に収められている金銅の大日如来坐像は享保12年(1727)江戸の鋳物師、西村和泉守の作で、台座中央に願主として木綿畑松原庵を中心に木綿畑村、板室村などが刻まれている。板室本村は白湯山詣で三斗小屋口の一の木戸で、大日堂下の穴沢小学校板室分校跡には明治時代まで参拝者が宿泊する2階建ての行屋があったという。願主は白湯山に奉納するためにこの大日如来坐像を作ったが、思いのほか重く運搬困難のため、この地に安置したという。

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行屋跡地

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小学校校門脇板室湯本道標が建っている。ここは塩澤の板室湯本(板室温泉)の分岐になる。現在の板室温泉に至る道もかつては程窪道という名前で存在したが、崖に阻まれ通り抜けられなかったようだ。
テンカラの向かい辺りが本陣で屋号が一井屋、隣が副本陣の伊勢屋で、問屋も兼ねていた。本陣一井屋は、「那須は崩れても一井屋は崩れない」と言われたほどの富豪だったといわれる。その先左手のもう一つの一井屋の前に大岩に乗った馬頭観音像があり、道標となっている。

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ALPSLAB routeによる
会津中街道 乙女の滝から木綿畑太子堂の探索