がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

瀬縫のお不動さま

那須町高久上瀬縫にある瀬縫のお不動さまに行ってきた。 瀬縫のお不動さまは、かつて大変ご利益があることで知られ、広く信仰を集めていた。

戦前は毎月28日に瀬縫不動尊の縁日があり、特に旧正月と旧7月には夜明け前より黒磯駅から続く街道には参詣者の流れが続き、街道沿いには多くの露店が出たという。

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上瀬縫の集落を抜けて不動尊の手前の滝の本集落センターの十字路から。現地の方に訊いたら、戦後も縁日の日にはこの参道沿いに露店が並んでいたそうだ。

黒磯市誌でこの瀬縫の不動尊の話が出てくるのは、黒磯駅の成り立ちと乗降客についての項なのだが、温泉地の最寄り駅として季節により利用客が増減したが、毎月28日、この瀬縫の不動尊の参拝客で駅がごった返したというのだ。正月、7月の縁日の日は列車の増発まであったという。

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それほどのご利益があったという瀬縫の不動尊。現在では藪に包まれてひっそりと静まり返っている。

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うっそうとした通路を抜けると広場になり、灯籠と歪んだ石段があり一段高くなった山の斜面にちょっこりとお不動さまが安置されている。入口の灯籠は昭和36年9月、東京都千代田区西神田のT夫妻による建立。清水の近くの灯籠は同住所同姓違う夫妻による昭和25年旧1月28日の建立。

 

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祈願かなった人たちが感謝を込めて社殿を造営すると、たちまち暴風雨が起こって破壊されてしまったという。格式や権威が嫌いなお不動様らしく、今も露天に安置されているのだという。

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おびただしい数の奉納剣。以前は手前の上瀬縫の集落の高久家が管理していたが、現在は集落で管理をされているとのこと。

こちらは那須町那須美さんのブログの記事。
那須りんどう茶屋 まいらんせ!奥那須へ 「大欲・・?」

rindoutyaya.at.webry.info

那須美さんは2012年の年末に瀬縫のお不動さまを訪れている。瀬縫を訪れた当時、高久家が管理しておりそちらのおばあさんからまだ奉納剣が買えたという。今回そのお宅を訪ねたが、代が替わり新しい建物に建て替えられ、昔を知ることの出来るものは何もないとのことだった。


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こちらが件のお不動様である。風雨にさらされ、陰影が消失しつつある。はたしていつ頃建立されたものだろうか。那須町史によると、大永年間(1511-1528)から続く雨乞い行事が今に至るまで続けられているとある。瀬縫不動尊は別名雨乞い不動と呼ばれている。

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石仏のそばには崖から滲みだして流れる清水があり、その流れはお不動さまの鎮座する場所の向かいの池に注いでいる。ここから芦野の方に水脈が伸びていて、 日照りが続くと、近在近郷から「水もらい」に組内・坪内または講中でお参りに来たという。その帰りにはきっと雨が降った。

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那須町史の解説でも水不動としての霊験、雨乞いの神さまだということが大きく扱われているが、雨乞いのご利益だけでは遠くから電車に乗って詣でたりしないだろう。奉納剣の願い事をみてみると、受験や商売繁盛などの祈願も目立つ。不動明王は、三鈷剣により魔を退散させ、煩悩や因縁を断ち切り、羂索で悪を縛り上げ改心させ、煩悩から抜け出せない人を救い上げ、迦楼羅焔で魔を焼き払い、煩悩を焼き尽くす。悩み事、願い事を叶えると信じられていたお不動様。

変わった例だと、戦時中、鍋掛の方で2月8日の針供養の際に大きな針刺しを作って瀬縫のお不動様に持って行ったというのがあった。瀬縫の地名も関係するのだろうか。

那須塩原市介護サービス機関紙「あやとり」第25号 2007.03

http://www.city.nasushiobara.lg.jp/14/documents/ayatori21~30.pdf


黒磯市誌によると、かつては、瀬縫不動尊に参る者は必ず大田原不動尊に、大田原不動尊に参る者はまた瀬縫不動尊に参る慣習があり、特に旧正月と旧七月は参詣者が多く、この日は列車を増発するほど盛況だったとある。ここでいう大田原不動尊とはどこのことなのか。ネームバリューでいえば成田山新勝寺の分院、成田山遍照院である。ご住職がなにかご存じないかと成田山遍照院さんにもお話を伺いに行ったが、成田山遍照院が大田原不動尊と呼ばれていたかどうかははわからない、龍泉寺のお不動様も龍頭不動尊として有名だから龍泉寺にも聞いてみてほしい、とのことだった。かたや戦国時代創建の霊験あらたかな 瀬縫不動尊、そして明治17年開創の 新名所?成田山遍照院のお不動さまをあわせてお参りするスタイルが鉄道ツーリズムの流行を背景に流行った、ということなのか。 参詣のために電車が増便されるくらいだから、何らかの資料や文献がありそうなものだ。

 

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敷地内に建立されている立派な倶利伽羅剣を模したいくつかの奉納碑は東京の個人や企業の信奉者が建立した昭和50年代のもので、信仰が昭和初期で途切れてしまったわけではないことがわかる。

先ほども触れたように、10年ほど前までは奉納剣も買え、毎月28日の縁日の日には訪れる人もいたようだが、現在どうなのか?すぐ隣のお宅の方の話だと、今でも時おり訪れる方がいることは間違いないとのこと。


瀬縫のお不動さまの手前に廃屋となったお堂が存在する。入口近くにある石碑に「不動尊信者一同」とあることから、瀬縫の不動尊関連の施設だと勘違いされている方もおられるが、こちらは富士・御嶽信仰系の新宗教神道実行教のお堂だった。

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皇紀二千六百年の灯籠や記念碑もあり、近所の方に関係をたずねると、瀬縫のお不動様とその施設は関係ない、と教えてくれた。

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[表] 東宮妃殿下安産祈願祭神奉齋所
[右] 祈願者 権少教正 黒崎忠平     神力神子 西村峰子
[左] 大正十四年十二月ニ十七日 東宮大夫書状下附
             侍従 落合義誠 書
[裏] 栃木県那須郡 神道実行教会所

           主管者 少講義 西村定

 昭和四十八年一月ニ十八日 外不動尊信者一同 建立
那須町の記念碑にて確認)


瀬縫のお不動さまについて、新たに分かったことがあれば更新したい。