1月8日下野新聞に五十里ダム湖底の歴史的遺構の記事が掲載されてから しばらく休みが合わず、やっと1月20日になって現地を訪れることが出来た。あれから降雪なく良い天気が続いたので、安全に現地に辿り着くことが出来た。しかしその天気の良さが裏目に出ることになろうとは。
海尻橋から下流、御判石方面
新聞に掲載されていた11月の写真と比べ男鹿川の水量が多い。ここ数日の天気で山に降った雪が解けて男鹿川に注いでいるのだろうか。
国
湖畔亭ほそいの向かい側の窪地に「ちびっこ広場」という公園がある。布坂山の半島を貫くように刻まれた「掘割」の跡。硬い岩盤に阻まれ水路工事は完成に至らなかった。
布坂山(腹切山)にあった六左の墓は平成23年にここ掘割の広場に移設された。
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ちびっこ広場からスロープを下りてきた。通常のダムの水位ならもう水に浸かっている位置。
上の画像の右側の岩壁。これは江戸時代の掘割の工事の際に掘削されたものだろうか。
左岸の段丘上を進んでいく。
幅が狭くなっていく。これはまさしく新聞記事の写真にあった場所だ。
その先は橋梁の床板が落ちてしまっている。石積で覆われた法面。あちら側の突端には親柱が残っている!橋名板も残っているのだろうか?
橋脚のたもとから。向う側に登って親柱を確認したいが、雪もあるし安全に戻ってくる自信がない。
これが記事中にあった1877(明治10)年~1956(昭和31)年に使われた街道跡か。
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5万分の1地形図「川治」1912(明45)測図 に加筆
古地形図をみると男鹿川左岸の道路には「會津西街道」と書かれている。川治の消防署のところから分岐する旧道がそれか。
掘割部分に描かれている点線は道幅の狭い道があったってことだけど、これがかつての一応開通した水路の跡ということだろうか。古五十里湖の水位を調整する役割を最小限果たした水路の滝があったらしい。
明治初期になっても掘割の硬い岩盤を掘削することは出来ず、布坂山の半島をぐるりと巻くような形で北上している。「572.80」地点より北は現在の道路のような気がするが、半島部分はこの湖底から一段高くなった部分を行くのか?あのガードレールが見える高さまで上がらねばいけないのだ。湖畔亭ほそいの駐車場奥のゲートは半島上の高台に上がる道?現在の道路に上がってくる取付きが湖畔亭ほそい付近にあったのではないか。
この位置が当時の路面の高さと思われる。海尻橋のところにはすでに橋が架けられ、湯西川へ向かう道路が作られているが、橋梁はもっと低い位置にかかっていたのだろうか。まだまだわからないことが出てくるなあ。
その2へ。
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