なためさんの会津西街道踏破の旅、山王峠越えに同行させてもらった。
詳細はなためさんのブログ記事「会津西街道8」を参照のこと。
「長い出路をのぼると、高さ二五〇〇フィートの峠の頂上に出た。そこは三〇フィートも幅のない突き出た山の端で、山々や峡谷のすばらしい眺めがあった。」
イザベラ・バード「日本奥地紀行」 (高梨健吉訳)
山王峠は、会津と下野を結ぶ国境の峠で、地形的にみても会津から関東に出る峠のなかでは最も容易なもので(山王峠標高906m、大峠1468m)江戸期を通じて会津藩の主要な輸送路として、参勤交代の道として使用された。幕末戊辰戦争の会津攻防戦はここ山王峠を中心に展開された。
横川宿から700mほど先、横川パーキングの裏手から旧会津西街道の道のりを辿って山王峠へ向かう。沢溝を渡り沢沿いに平坦な道を進む。この辺りは林業の作業道として使われているのだろうか。
もう一度沢溝を越えしばらく行くと、いよいよ本格的な峠道となる。この斜面はもともとつづら折れであったのだろう。形跡は残るがはっきりしない部分もある。
本当にあっけなく旧会津西街道の山王峠に到着した。冒頭に挙げたイザベラ・バードの文章の場所だ。峠というと鞍部を越えるものだが、栃木側からのアクセスだとここはあまり鞍部の雰囲気はない。旅の安全を祈る馬頭観音が静かに立っている。
「弘化元辰(1844)十一月七日 施主 中三依 大黒屋」
イザベラ・バードが云うほど見晴らしはよくないが、崖下に旧R121のガードレールがチラチラ見える。
西の峰を進んでいくと道の真中に30cm程の台石が無造作に2つ転がっている。これが山王権現の鳥居のものとされている。かつてはこの先から急斜面につづら折れがあったようだが崩壊しており、崖を慎重に下りると舗装の旧R121と交差する。旧会津西街道は旧国道を隔ててその先の峰沿いに続いているが、寄り道して旧R121沿いの峠である県境附近を見に行くことにした。
維新後、福島県令・栃木県令を兼任した三島通庸は会津三方道路を計画、西那須野の三島を起点とした塩原新道が作られる。当初のルートである善知鳥沢(うとうざわ)ルートは、塩原の古町から山王峠に至る32.7kmを新たに開削したものだ。峠の旧R121の県境から会津側は、この時に拓かれたものだろう。その後わずか数年で尾頭峠ルートに切り替わり、旧会津西街道の横川までを改修して利用した。今回の進入口、横川パーキングから500mほど行ったところ左側に進入禁止となっている旧R121の入口がある。この道は尾頭峠ルートの塩原新道を開削した時に作られた道をベースにしていると思われる。前述善知鳥沢ルートは、この県境付近に出てくるそうだ。
善知鳥沢ルート入口
旧会津西街道の探索に戻る。この先も峰を進む。いわゆる「ダンゴ石沢の中曽根」と呼ばれる部分に入る。
峰の稜線を辿ってるはずなのに、掘割状の道となり奇妙な印象を受ける。人馬が行き来して掘られ、そこに降雨が流れて次第に深くなっていったのだろうか?
曽根の末端からダンゴ石沢に下りる急斜面が掘割状のつづら折になっている。そこから山王トンネル手前の山王大橋を見ることが出来た。沢を渡り沢沿いを進む。陣場跡を通り旧R121に出る。本来はずっと沢沿いを行くようだが、道跡は消失していると思われるので舗装路の旧R121を進み、ゴールの合流地点に着く。思いのほか早く着いてしまったので、「道の駅田島」のすぐ南にあった「山王茶屋」の移築先、「奥会津博物館(旧 御蔵入の里 奥会津地方歴史民俗資料館)」に向かった。
DL-3(DG-100)による今回の探索のログ。
ルートラボ - LatLongLab
会津西街道 (下野街道)山王峠の探索 - ルートラボ - LatLongLab
Flickrに当日撮影した写真をUP。事前にKashでGPSデータと画像Exifデータの撮影時刻から撮影位置を推定、経度緯度情報をExifに保存して、ALPSLAB photoでgeotagを付与した。しばらくFlickrを使っていなかったらYahoo!傘下に入ったようで、Yahoo!にログインして使用するようになっていた。以前に作ったFlickr(がり2)名義のほうは更新する方法がわからず、向こうのYahoo!でIDを作り新たにFlickr(がりつう)を作らざるを得なかった。
三島街道を復元する会のブログ
東北物語り伝承館