がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

笹野曽里の街道跡の現状

「天空の古道 会津中街道山歩き旅2017」の参加者の方から、笹野曽里の一里塚附近の街道跡の状況を伺って、気になったので確認してきた。

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畑脇の雑木林が拓かれ太陽光パネルが設置されている。東塚のある雑木林まで伐採されてはいない。そういえば板室本村の古戦場跡も電気畑になってしまった。土地所有者が何に利用しようと文句の言いようはないが、那須の山々を背負った牧草地帯の風光明媚な情景のあちこちに作られるキラキラの電気畑をみるにつけ、観光産業を柱とする那須町がこういった開発にある程度の規制をかけないのはどういうことだろう。この場所のすぐそばには最終処分場があったりする。この附近は那須塩原市北部は水源地にもかかわらず産廃銀座と呼ばれる最終処分場が集中するエリアになっている。合併以前の話なので当時どういう方針でこうなったのやら、政治的なことは興味ないけど。

天空の古道 会津中街道山歩き旅2017

昨年に引き続き、会津中街道交流実行委員会主催の「天空の古道 会津中街道山歩き旅」に参加してきました。月初めにかなり激しいギックリ腰に見舞われ参加が危ぶまれましたが、不安を抱えつつもなんとか完歩することが出来た。
今回は会津側集合組と栃木板室温泉側集合組の2グループ。板室側集合組がバスで野際のスタート地点に到着したのが8時40分頃。合計80名ほどの参加者で出発。

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紅葉の落葉を踏みしめながらのトレッキング。

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大峠。このあと雨足は霧雨から小雨に変わる。雨粒として落ちたため、大峠である程度見通しがきいてよい景色を堪能出来たということか。

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大峠から三斗小屋宿跡までの会津中街道跡は非常に歩きやすく部分的に熊笹を下刈りすれば快適なトレッキングルートなのだが、3か所の渡渉、そして麦飯坂手前のでさらに湯川の渡渉があるため、単独、少人数での遡行はかなり難しい。安全ロープだけでザブザブ渡った方も多いはず。倒木での安全な橋掛けには経験と技術が必要だ。

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今回は那須山岳会の強力なサポートの元、万全の体制での実施でした。

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湯川渡渉点。わざわざこのスノコと鉄パイプを運んできて下さったサポートの那須山岳会の皆さんには感謝の言葉しかない。

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最後の最後、すっかりクタクタの状態での麦飯坂登り。大人数の隊列なのでかなりゆっくり、休み休みだったのでなんとか上がることが出来た。沼っ原から駐車場に上がる階段が一番きつかったかもしれない。

トレッキング終了後は板室温泉「幸乃湯」で「夜楽会」が行われた。佐藤淳一先生とスタッフの皆様、企画運営お疲れ様でした。

 

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高瀬観光やなの準備を観に行く2017@小川谷田

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那珂川天神河原 高瀬やなのやな作りの現場を見てきた。7月に入り急に熱くなって水辺が恋しい季節。海もマンプーも遠い栃木県北民にとって、やなでの水遊びは夏の最高の思い出だ。
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やなを設営するにあたり、まずは簗場の上流に堰を作り、流れを遮らなければいけない。その上でやなの施工に入る。

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支柱を打ちこみ水平の柱を渡しその上に板を張る。簗漁の期間は7月1日から10月31日まで。やなの施工は7月1日にならないと始められないので実際のやなが始まるのは7月20日ぐらいから。

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とても大きな蛇籠、太郎籠と次郎籠がやなを護る。中で職人さんが竹を編み上げておられた。

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操業始まったらこんなアングルでは撮れないので貴重だなあ。

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本格的な夏はそこまで!

 

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フォーラム福島という映画館@福島市


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牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件を観に福島市にあるフォーラム福島にやってきた。話題牯嶺街少年殺人事件をフォーラムで!午後からの上映だったので行きは高速を使わずに国道4号線をずっと北上した。3時間ほどかかってしまったが、国道沿いの街並みの変化を楽しみながらの道中、かつて道の駅の役割を担っていた昔ながらのドライブインや食堂がわずかに残っており、今のうちに訪問しないと次に通るときには無くなってしまいそうでいろいろ寄り道してしまった。

 

 


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地元にもフォーラム那須塩原という4DXまであるシネマコンプレックスのどでかい映画館があるが、その経営母体である「フォーラムシネマネットワーク」とは、市民出資による、良質な映画を地方でも鑑賞できる環境を提供するために設立した会社なのだ。フォーラム那須塩原も、映画館の空白地であった栃木県北地域にフォーラムが映画館を作ってくれたかたちだ。

www.forum-movie.net

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そしてフォーラム福島だが、街中の小さな映画館なんだけど、建物がいくつか点在してシネコンを形成している。

フォーラム福島(現在6スクリーン)は、市民出資による「市民の映画館を建設する会」から1987年に生まれました。年間上映本数は平均200~250本。映画の選定基準は全国ロードショーや独立系の区別なく、良質な映画を幅広く市民に紹介しようという方針で運営しています。また、プログラムは劇場スタッフが仕掛けるだけでなく、大学や市民団体、映画ファンなど地元市民自らが劇場側に働きかけることで上映会が決まり、実現していくという流れも大切にしています。

施設案内 | フォーラム福島 より

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上映時間が4時間ということで、フィーリングが合わなかったらどうしようと思っていたけど、光と影の素晴らしい映像表現に惚れ惚れし、思春期のもどかしさに身悶えしつつの あっという間の上映時間だった。上映後は放心状態で、カウンターに預けていた車のカギを忘れて建物を出てしばらく歩いてから我に返ってあわてて映画館に戻ったのだった。

那須嶽開山祭2017

去年は5/8休めなくて、だけど天候が不順で山麓駅ロビー開催だったんじゃなかったか。とにかく去年は仕事で行けなかった。今年は早めに出発して行きがけに地元登山部の高校生ら8人が亡くなった雪崩事故の追悼にファミリースキー場の献花台へ寄った。

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スキー場東側の小丸山展望園地に献花台がある。とにかく納得のいかない事故だ。なぜラッセル訓練をあの急斜面で?

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登山前に皆で黙祷。

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頂上は風がつよく帽子がとばされそう。

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那須嶽開山祭、頂上での式典のあと、那須修験道昇龍講の皆さんについて那須岳の拝所を巡る。 風がおさまらず「ノゾキ」の岩塊上に行くのは中止に。「胎内くぐり」の場所に向かう。

 

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この場所はほんとに崖の際なので、実際に行ってみたい方は気を付けてださい。またコッソリ野○ソポイントでもあるので足元も気を付けてw

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風がやむことを信じて峰の茶屋避難小屋へ向かうも小砂利が飛ぶすさまじい風はおさまらず拝所、毘沙門ヶ岳(朝日岳)縦走は断念した。

黒磯の映画館 寶来座と金剛館

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栃木県大日本職業別明細図 S12(1937) 

ちなみに栃木県大日本職業別明細図 T14(1925)のほうには黒磯町の市街図の紹介はない。栃木県営業便覧M40(1907)にも掲載はあるし何故なのだろうか。広告が充分に集まらなかったとか?黒磯駅周辺は明治19年黒磯駅が出来てからの発展で、町並みの形成は後発だったが、明治32年には遊廓設置規程県令により増設地に選定されるほど経済的にも繁栄が目覚ましい地域だった。


昭和30年代、黒磯地区には磯原町新地仲通りの寶来座と、黒磯本町原街道沿いの金剛館があった。寶来座は東映と日活、金剛館は松竹と東宝大映の作品を上映していた。

寶来座
黒磯町磯原町206 / 黒磯町206 現住所:那須塩原市中央町4
木造二階 250-500席
創業1951年11月(1950年11月?)
資料では1952-1963の営業は確認 閉館時期は不明


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「おもいで写真館 那須塩原のひと・まち・くらし」H27(2015)より

昭和初期の新地仲通り。現在の三川燃料店のところまで道の両側に桜の並木があったそうだ。

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 現在の新地仲通り。1990年代前半くらいまではカフェグランボアなどもあり盛り場的な雰囲気が残っていたのだが、現在は閑散としている。

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2016.06撮影

この通りの中央ほどに「御菓子司 遊行堂」という看板の建物がある。これがかつての映画館、寶来座の建物である。おわかりだろうか?

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2016.06撮影
矢切りの部分に当時の「寶来座」の塗装の跡が残っている。遊行堂のファサード壁の向こう側はどうなっているのか。

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正面からみるとこじんまりとした商店だが、後ろ側に回るとかなり大きな建物だとわかる。全国映画館名簿、映画館録の収容人数をみると増減するが最高で500席。一段高くなった舞台があり2階桟敷もあったという。

近隣の方の話だと、映画館を閉館したあと、座席や舞台などを外してリノベーション、県北で初のスーパーマーケットとして営業をしたらしい。鮮魚店青果店などの個人商店がテナントで入り、当時県北で一番大きな商業施設として名を馳せたそうだ。スーパーとしての営業は5、6年だったらしく、その後は家具店として営業し、最後は和菓子店の「御菓子司 遊行堂」が使用していた。菓子店はこんなおおきな建物である必要がないので、後ろの部分はしばらく倉庫となっているのではないか。
映画館として営業した時は2階建てで、2階には桟敷があった。スーパーが居抜きで営業した際に壁で塞いだはずだが、2階の桟敷は現存しているのではないか、とのことだった。是非見たい!

寶来座は営業当初、宝来館、宝来座を名乗っていたが、全国映画館名簿、映画館録をみていくと1959年から数年間、黒磯東映東映宝来座を名乗る時期がある。これは直営扱いになったのか、それとも何か配給方式が変わったのかは不明である。興行主・支配人名に変更はないので運営上大きな変化があったわけではないようだ。宝来座を経営していたのは貸座敷業、金融業で名を成した原田家である。当時の建物が残る蔵にも「寶」の文字がみられる。




金剛館
黒磯町40 / 黒磯町本町3-40 現住所:那須塩原市宮町12-7
木造二階 450-800席 1942年2月創業(1931年11月?)
資料では1942-1964の営業は確認 閉館時期は不明

映画年鑑の1954年版と55年版には創業年データが掲載されているのだが、映画館の中にはその2つの年代が違っているものがある。これは誤りの訂正なのか、あるいは映画常設館としての創業だと思って提出したら、芝居小屋としての創業を改めて提出したのかよくわからない。また創業当時は収容人数が800席だったのが450になったり。それ以降ずっとその数なら、何らかの都合で2階桟敷は使わなくなったとか、なんとなく想像つくのだが、上がったり下がったりまちまちな申告があったりで困る。

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原街道 2016.06撮影

金剛館があった場所は葬祭業者の帝都ホールの手前、レオパレスの前の駐車場付近と思われる。(画像)
金剛館は、戦前あるいは戦中に創業した800席の収容人数を誇る劇場である。経営は安藤家。1949年には那須村湯本の那須劇場を経営。那須劇場は1914年創業という資料もあるので、もともとあった芝居小屋を常設映画館として営業したのかもしれない。1958年には寺子丙にある黒田原劇場を引き継ぎ泰平館という名称で経営した。金剛館は1964年に黒羽東毛座の鈴木家の経営となる。
複数の方から小学校の時皆で金剛館で映画を観たという話を聞いた。赤胴鈴之助明治天皇と日露大戦争、ベンハーを観たという方もおられた。


寶来座と金剛館の記憶、思い出、関係資料についてご存知なことがありましたら、書き込みして頂けるとうれしいです。

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 番外

 

黒磯シネマ
黒磯市錦町14-3
鉄筋一階 166席 錦商事(株)
1975-1982は確認 開館閉館時期は不明


黒磯マリオン /黒磯ピカデリー / 黒磯ピカデリーヤング館

黒磯市錦町14-3
鉄筋一階 各77席 ナカジマ興行
-1988- 開館閉館時期は不明


シネマクラフト黒磯A,B
黒磯市錦町14-3
鉄筋一階 各77席
2006年閉館

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大田原セントラル劇場、西那須野劇場、太陽劇場、大田原朝日座と次々と映画館が閉館する中、経営者が変わりながら最後まで栃木県北の最後の砦として営業を続けたのが錦町のこの映画館である。2006年に閉館し栃木県北は映画館の空白地域となった。2009年のフォーラム那須塩原の開館を待つこととなる。改めてフォーラムシネマネットワークの成り立ちについて以下記事中の文章で確認していただきたい。

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