今年で37回目となる塩原温泉川崎大師厄除不動尊の年祭に行って来た。以前からなぜ塩原の須巻富士に川崎大師のお不動さんがあるのか疑問だった。遊園橋のつづら折のところに看板があり、万人風呂があった頃からお不動さんがあったのかと思ったがそうではないようだ。
大同年間、弘法大師が旅の途中、塩原の里を通りかかり、飢餓や天災で苦しむ人々のために草庵を結び不動堂を建立したという伝説がある。長らく塩原の里人はこの不動堂を熱く信仰していたが、戊辰戦争の折、兵火により村中が焼失しこの不動堂も類焼してしまった。人々は不動尊の再興を願っていたが、昭和50年代に入り観光協会、旅館組合が中心となり不動尊の再興運動が盛り上がった。川崎大師平間寺より不動明王を須巻富士山頂に勧請し昭和52年7月に入仏開眼法要、以降毎年7月28日に年祭が執り行われている。
今年で第37回を数える。年祭にあわせ都心部を中心に川崎大師参拝団、柏講参拝団が塩原温泉に宿泊し参加する。今年は170名とのこと。そのほかに地元塩原温泉不動講が加わる。
午前9時、塩原もの語り館で開会式、貫主あいさつと永年参加者表彰ののち行列がスタート。稚児行列は毎年あるわけではなく5年に一度とのこと。
湯っ歩の里まで行列し各自バスに乗り込み須巻富士に向かう。車での須巻富士への行き方は2つ。かつての万人風呂遊園道路入口とトテ馬車基地のある須巻温泉入口。今回は須巻側から向かうようだ。
畑下の庚申塔
寛政7年(1795)
87×48×27cm 36.966627,139.82413
[正面]
右 古町
庚申塔
左 須巻
[右側]
寛政七乙卯 七月吉鳥
江戸期には畑下温泉から渡渉して須巻に行く道があったようだ。当時から有名だった須巻温泉名物「滝の湯」と「団子」は「根本屋」という旅館が現代まで継承していたらしい。がオイルショック後に廃業した、とデミオさん情報より。
万人風呂霞上館跡を通り富士山園地入口に着く。弘法大師が建立したといういわれの不動堂はこの須巻富士山頂にあったらしい。弘法大師云々はハク付けとしても、高原山系の修験者の修行場だった可能性はある。
ビジターは最後のバスで送ってくれる。マイクロ6台分のシニアが自然観察路でもある階段をゆっくりと上がっていく。
山伏問答
山頂手前の広場に結界の張られた道場が作られている。熱中症対策のためか、テントには給水所が設けられていた。道場に近づく前に塗香(ずこう)を頂き身を清める。
法弓作法
閼伽作法
請願
柴燈護摩が勢い良く燃え上がって間もなく、山中に雷鳴が響き渡った。しばらくしてにわか雨が降り出した、僧侶衆は読経するために山頂の不動明王の前に移動、山伏連は道場に残り参拝の人たちに護摩木をくべさせる。
頂上の不動明王像前、ドカシートで雨から祭壇を守りながら僧侶達の読経が行われる。ユニゾンする僧侶達の力強い声が光背の炎に溶け、雨雲を押しのけた。