奥州道中、白坂宿から2キロほどで、立て場の皮籠集落がある。文化年間に編まれた「白河風土記」によると、皮籠集落はその東にある「吉野宿」から移転してきたのだという。吉野(芳野)宿は、芳野遺跡として発掘調査が行われた白河南中学校付近にあったらしい。遺跡からは鎌倉時代後半から室町時代の遺物を中心に、江戸時代初期の遺物、縄文前期の土器、石器が出土した。遺構の中央を東西方向に道跡が確認されており、ひとつは遺構の東側にある石阿弥陀の一里塚に向かって伸びる初期の奥州道中跡、もうひとつは鍛冶屋屋敷跡の北側に向かう鎌倉から室町時代と推定される中世の道跡(奥大道か)だ。「吉野宿」は奥大道の時代から奥州道中の付け替えが行われた時期まで存在したということか。
黄金橋
一里塚の整備は慶長9年(1604)で、石阿弥陀の一里塚はこの時期の築造のはず。慶長期の初期の奥州道中のルートは、「白河風土記」によると、「黄金橋」から白河の南側にある「土武塚」を通って城下に入る、というもの。実際は南湖と大沼の間を通り九番丁に入る「鬼越ルート」が正しいようなのだが。黄金橋とはR294沿い、皮籠集落手前の用水路のような狭い川を渡る小さな橋だ。この付近からR294を逸れて北東に吉野宿に向かうのだが、実はもうひとつ、旧奥州道中のルートとして怪しいのが、今回探索した御茶屋(おちゃや)峠、いわゆる御茶屋古道だ。
黄金橋より南へ550mほど、R294東側の山際に取りつきがあったと思われる。このあたりを小坂というらしい。拡幅の際に削られたものか、近代になって路面をなだらかにした際に段差となったのか。斜面は崩れやすい砂地、笹薮を漕いで強引に斜面を上る。
斜面上に残る道跡からR294を見下ろす。
数10mで峠の切り通しに出る。これが御茶屋峠だ。ほんとうに小さな小さな峠、標高415m。
林の中側からの御茶屋峠
峠から150mほど山の中に入っていくと、落葉に覆われた湧水地がある。ここをお茶屋清水といい、かつては旅人が憩う茶屋があったという。この付近一帯の字名を「御茶屋」という。昔、老人が臨終の床で、「お茶屋の清水が飲みたい」と言って亡くなったとか。街道が山地を抜け平地に出る前にわざわざ峠を越えるルートなのは、この湧水地があるためか。小河川により形成された段丘下はかつて湿地帯だったと聞いている。逆に段丘上の皮籠村付近は水に乏しく、水騒動が頻繁にあり、明治、昭和初期と灌漑用の沼を作った。
芳野への道はお茶屋清水の脇を通り北上すると、やがて刈払いされた作業道になる。
林を抜けると黄金橋のかかる小河川北側にある畑地に出てくる。ここで街道跡は消失するが、この先は二輪足神社の前を通り、吉野宿に至る道筋だという。
峠の先からは二股になっていて、右手が先ほどの芳野への道だったが、左手に向かう道もあるのでそちらも辿ってみる。