がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

亀廓@宇都宮

行こうか池上 かへろか馬場 ここが思案の都橋

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江戸期から明治前期にかけて、宇都宮宿の繁華街であった池上町、伝馬町、材木町に遊廓、いわゆる女郎屋や置屋が点在していた。他にも江野町、県庁前通り付近は「紅縁街」と呼ばれ芸妓屋が多く、尾上町(現本町)、泉町、一条町などにも置屋があったという。明治23年の宇都宮統計によると、貸座敷 33戸 娼妓 106人 芸妓 43人 茶屋女 148人とある。市内の公娼、私娼含め風紀上目に余るものがあったらしく、明治21年11月の議会に遊廓の新地移転の建議書が提出される。

宇都宮ハ県庁ノ所在地ニシテ下野県政ノ中心ナリ、師範学校、中学校所在地ニシテ県下教育ノ首脳ナリ、汽車ハ南北ニ通シ街道ハ東西ニ貫キ内外人ニ往復ノ要路ニシテ尋常一般ノ宿駅ニ非ズ、然ルニ積年ノ遺弊ハ言フニ忍ビズ、娼妓貸座敷営業者ノ公然市街ノ中央ニ門戸ヲ張リ、毫モ憚ル処ナキハ其ノ体面ヲ傷ツクルハ勿論、今日ノ時世ニシテ尚依然措テ顧リミルナクンバ風教ノ上ニ弊害ヲ及ボス決シテ尠少ニアラザルナリ、然ラバ則チ期スルニ年月ヲ以テシ之ヲ市外適当ノ位置ニ移シテ市府ノ体面ヲ全フスルヲ計ルハ豈ニ今日ノ急務二非ズヤ若シ幸ニ閣下ノ採納スル所トナラバ、速ヤカニ其旨ヲ発布シ、営業者ヘ借スニ三年ノ時日ヲ以テシ、之ガ実行ヲ為サシメンコトヲ期セヨ敢テ建議ス。

明治27年1月、池上町、伝馬町、材木町の貸座敷12戸を「新地」に移転させた。「新地」は、旧城跡南館を敷地とし、亀字形の区画であったので、「亀廓」と称した。大門より北へ大通りが直進し八丁ほど(現在の本丸西通り)、なにもなかった旧城付近は次第に人家が建ち、数年のうちに繁華街となった。

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亀廓大門

大門には「春入翠軒花有色 風来繍閣玉生香」の文字。大籬(おおまがき)は元は池上町にあった小松楼、尾張楼、谷本楼、福和泉、新川楼。小楼に中村楼、元材木町の佐々木楼、稲尾楼、現金楼、盛水楼、村田楼、万年楼、伊勢楼、初音楼、北越楼。廓芸妓屋に新沢田、橋本、中橋本、菊の屋、大和屋があった。大正7年の「宇都宮案内記」によると、廊楼は16軒、公娼妓は200名に及んだ。

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宇都宮市街真景図(大正7年) 左中の区画が新地

規模は大きくないが、小吉原の趣があり、素見(そけん 遊女をただ観るだけで買わないこと)は午後7時から8時頃に多く、馴染みの常連は情緒を楽しむ好々爺を主とした。
郭内の神社には成田不動明王大鷲神社、稲荷神社があり、縁日は11月の初酉の日で、手踊りなどもあり賑わったという。

宇都宮遊廓
は栃木県宇都宮市河原町に在つて、東北本線宇都宮駅で下車する。乗合自動車の便がある。
宇都宮は下野第一の都市で、維新前は戸田氏の城下だった。宇都宮城は、今は城址丈けに成って居るが、宇都宮釣天井で有名に成った処で、市も其れが為に人々に知れ渡つた処である。師団司令部、下野製紙工場、日清製粉工場、二荒山神社等があつて市は大繁盛である。日光行の鉄道は茲で分れて居る。貸座敷は目下十五軒あつて、娼妓は約百三十人居るが、栃木、福島、埼玉県等の女が多い。店は写真店で、娼妓は居稼ぎ制、遊興は廻し制で通し花は取らない。必要は御定りが三円位で、台の物が附き、一時間遊びは一円位である。
「全国遊廓案内」(昭和5年)より

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現在の跡地は歓楽街の名残もなく住宅地となっている。高台の上に格子状の区画が今も残っている。この地形が亀の甲羅のようで「亀廓」と呼ばれたのではないか。唯一、カフェー建築の廃墟が一軒だけ残っている。

参考:「宇都宮市史」「近代庶民生活誌第14巻」ほか

 

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