がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

教伝供養塔の道標

裏茶臼の紅葉が最高の時に休みが取れることはめったにないので、沼ッ原側から姥ヶ平に行ってきた。

沼ッ原の駐車場に着いた時点では、茶臼岳方面に雲がかかっていた。登山道ですれ違う人々の話でも一様に「今日は雲がかかってイマイチだ」とのこと。
せっかく来たのだし、俺が着くまでに雲が抜けないかな、などと思いながら歩を進めると、チラチラと霧雨が降ってきた。薄曇りの状態で、三斗小屋温泉方面・牛が首分岐手前の坂上、視界が開けるビューポイントに到着。

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峰の茶屋から朝日岳のほうは多少青空がみえるものの、南月山方面には雲の切れ間無く真っ白だ。しばらく雲が流れるのを待ってみたが、状況は変らず。姥ヶ平に向かう。

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先日あたり、イヌエチケイで紅葉の様子が放送されたことを、前を歩くオッチャン達の会話から知る。

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昼時ということもあり、姥ヶ平は人でごった返していた。これだけ居るのに話に聞く山ガールは目撃できなかった。次は山団塊のカッコイイ名称を電通が考え中だから気をつけろ。

週末のヒトデはすごいことになりそうだ。ボルケーノはちょうど交通規制があるから気をつけろ。

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沼ッ原に戻って湯本へ。前回確認できなかった白河道沿いの、教伝供養塔の道標を見に来た。前回記事でコメントを頂いたおもしろかたりべさんに場所を教えていただいたのだ。前回あきらめて戻ってきた場所より1ブロック先。

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教伝供養塔の道標

[正面]
南無阿弥陀
[右]
元文四未年
[左]
左 白川道
 六月十八日

右下部大きく欠け

教伝の話は、親不幸する者には仏罰が下るぞ、という仏教説話なのだろうけど、子供に話すときのリアリティを増すために時代設定や、実在の地名が加わり、しかも享保年間の湯本の人たちも話題作りに地蔵を建立しちゃったりして・・。
そこに来て教伝の母親による続編ですよ、今風にいうとスピンオフですか。不良息子であったとはいえ、愛する息子を失った母親の悲しみは計りしれず、この供養塔を賽の河原に建立する為に五箇村から背負ってやってきた教伝の母親が、ここで力尽きた、という母の愛の偉大さを説くお話。

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賽の河原の教伝地蔵の案内板では、元享元年(1336)に教伝が那須に湯治に来て火の海地獄に堕ちた、ってかいてあるよ。室町時代の設定だし。ん?この道標、元文4年(1739)建立なんだけど・・。この塔碑の欠けた部分にたまたま「五箇村 何某」とか建立者名が入っていて、教伝の話にいつのまにか組み込まれたのかな。