姥ヶ平を過ぎ登山道から逸れ、涸沢を辿って御宝前、両部の滝に向かう。
「御宝前」は茶臼岳西側の山中にある温泉の湧出地だ。明治になり神仏分離以降は、三斗小屋表口白湯山側ではこの御宝前が「白湯山神社」とされたようだ。湯本口高湯山側では茶臼岳(月山)山頂に「高湯山神社」の本社、御宝前が「奥の院」という形で扱われた。
涸れ沢を下っていくと二俣になり、御宝前方面は左の細い沢を下る。ちなみにハクセキさんは、幻の滝報道の直後、この沢を通って両部の滝を観に来たそうだ。
実際の行程は御宝前から登山道への沢上りだったため、上2枚は逆方向を向いた写真になっている。
慶応4年8月22日、館林藩と黒羽藩の連合6個小隊は、三斗小屋宿に駐留する会津軍を撃退し、会津西街道の西軍と合流して若松へ攻め込むべく白河を出発した。那須月山を乗り越えて行く部隊と、板室沼原側から行く部隊の二手に分れ、南と東から三斗小屋宿を合撃する作戦だ。那須月山越えの部隊は、北回り(大丸温泉~峰の茶屋~三斗小屋温泉経由)と、南回り(那須湯本~高湯山・白湯山行人道経由)の二手に分れ進軍する。険道を臼砲三門携えての強行軍だ。
那須嶽を越え三斗小屋に進む。 此行路常に鉄鎖を設け、行人這いて通ずる険路なり、故に行軍甚だ困窮す。大丸越えの兵は無路絶険を冒し進むを以て大に後る。
「黒羽藩戊辰戦史資料」より
行人道御沢沿いの道は、鎖場の多い険しいルートだったのは分かるが、大丸~峰の茶屋~三斗小屋温泉ルートは今では登山道として整備されているが、当時は道無き道を行く感じだったのか?
戊辰役野州戦 三斗小屋の戦いに関しては、亜樹さんのサイト「會東照大権現」に詳しい
しばらく深い谷の藪を進むと、視界が一気に開ける。北西に遮るものはなにもない。気付くと足下には温泉が流れ、慎重に谷沢を降りていく。
途中引湯施設が据え付けられている。これも湯管により白笹山山麓の別荘地に送るためのものか。
広く開けたナメに出る。ナメは赤茶けており、鉄分を含んだ温泉成分が堆積している。振り返ると平たい噴泉塔?が。「御宝前の湯」だ。噴泉塔というか岩盤に温泉成分が張付いているだけ?表面はグズグズだが乗れないことはない。
御宝前
ここが高湯山・白湯山の御神体として神聖視された御宝前だ。かつては白い湯が大量に湧出し滝のように流れていた(白湯山の由来?)というが、現在は業者による引湯により湯量はそれほどでもない。周辺の樹木の緑のなか、ぽっかりと開けたこの場所は、赤茶けた岩盤があたかも血の池のようで、非現実的な情景だ。
山形出羽三山の湯殿山御宝前も、周りから温泉が湧き出る赤褐色の巨岩が御神体らしい。「和漢三才図会」などに「新湯殿山」と形容されるからには似通った様相なのだろう。実際の御神体はこの褐色の堆積物で覆われた斜面の奥の大岩ということか。
大岩の上には比較的新しい祠が祀られている。元々は石造りの祠があったそうだが、現在のものは引湯の工事の際に祀られたものらしい。
恐れ多くも御神体大岩の上より御宝前を見下ろす
御宝前の正面に昭和4年(1929)に建立された石碑がある。これは温泉神社の神主であった人見義男氏、三斗小屋温泉の住人により建てられたものだ。
御宝前の滝
御宝前の下流にある御宝前の滝を通り、さらに下ると給湯管保守道(湯道)と交差する。沢は両部の滝右滝の水源となる。高湯山霊場拝所の順番だと、御宝前を拝んだあとは両部の滝に降りることとなる。御宝前から両部の滝、補陀落三社、荒沢不動へ。その後 御宝前に戻り地獄平、剱ヶ峰、恵比寿大黒(三面大黒)、胎内くぐり(現在は崩壊)、朝日岳へ向かう。