がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

簑沢再訪

那須町の図書館で調べ物。先日の関街道探訪の件を受けて佐藤賢三氏の「簑沢の歴史おぼえ書き」なる自主制作ファイルを閲覧。なかなかの力作で、興味深い記述が多くあり。簑沢地区を再訪することにした。

移動途中に道標。東陽中前。

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下芦野の馬頭尊
134・36・26cm 嘉永4年(1851)

[正面]
  右 い王うの くろば祢
馬頭觀世音
  左 さくばみち
[右]

嘉永四亥歳      大嶌義助
        世話人 渋井善平次
七月吉旦       下芦野村中

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 吉ノ目の六字名号塔道標の件は、前回記事修正のとおり。この供養塔はお墓なのだという。「簑沢の~」に梵字ありという記述があって現地で再確認していたところ、通りすがりの軽トラのおじさんが降りてきて話しかけてきた。しばしこの石について、周辺の歴史についてのお話を伺う。おじさんの子供時代、この石は分岐の右角にあったとのこと。でも道標表記からして現在の左角が正しいようだ。よく石の上に乗って遊んだそうだ。男女がどこの家の出身の人だったか等も教えてくれたので、現地では有名な言い伝えなのだろう。この付近が手討ちにされた現場だということなのか。

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道標近くの山際に樹齢約200年の「上郷下平の山桜」と、その裏手丘上に「御幣石(おんべし)神社」がある。御幣石とは丘の上に転がる御影石の巨石群で、かつての社殿は朽ち果て現在は2つの祠が祭られているのみ。ここも義経伝説のポイントなのだが、現在、義経街道の旧蹟案内板は表面の印刷が剥がれてしまってとても読める状況じゃない。先程のおじさんとも江戸時代のこの石のほうが文字がはっきりわかるよ、と笑いあった。

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棚倉方面の旧橋「中梓橋」付近の塔碑を確認したが、明治後期の馬頭尊と明和?期の青面金剛庚申塔を発見。期待して台石の文字を確認したが道標ではなかった。

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その先少し進むと街道から右に100mほど入った三蔵川沿いに「滝の宮神社」があった。この辺りが「古屋敷跡」と呼ばれる場所で、簑沢の集落はかつてこの付近にあったという。簑沢は2度大火に遭いその度北に移動したとのこと。東山道・関街道はこの古屋敷跡付近を通っていたという。「簑沢の歴史おぼえ書き」には「古屋敷の古道の跡は関ヶ平部落より三蔵川方面に向かっている・・・古屋敷の北の分かれ道より簑沢に抜ける・・・ここも簑沢の裏手まではかなり広い道跡・・」との記述がある。また「古屋敷の三叉路に馬頭観音と大正元年の道標あり」という記述もあり気になるところ。

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しかし現地に来てみるとH17~19年に大畑・簑沢地区のほ場整備工事が行われたようで、まっすぐに伸びた農道以外は見当たらない。この先滝の宮神社に寄ってクランクし美野沢小前で合流している。途中河岸段丘の土手が彼岸花の群生地になっていて遊歩道・階段が整備されている。
現地で聞き取りをすると、上記画像の農道の右端にかつては道跡があったという。ほ場整備で消失したらしい。90年代後半の住宅地図を見ると関屋商店の先から入るゆるやかなS字を描く細道が確認できる。しかし滝の宮の表示もなく前述の三叉路がどの部分を指しているのかわからない。

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二岐峰城跡

現地の人に聞き取りをするたびに佐藤氏の思い出話を聞いた。家の年寄に昔の話を聞きに足繁く通ってくれたこと、上梓した2年後に亡くなられたことを知った。10年ほど前のことだ。ほ場工事の際に発掘調査があったかどうかはわからない。遺跡があるわけではないので多分なかっただろう。道標の行方も気になるし、また訪れることになると思う。