がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

金燈籠@大田原上町

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お茶碗が割れた。しばらく在りもので済ましてきたが、やはりマイ茶碗がほしい。そんなわけで、大田原金燈籠交差点にある「米喜」にやってきた。米喜は300年前からあるセトモノ・漆器類を扱う贈答品のお店。

米喜といえば金燈籠。文政2年(1819)10月、町内安全の祈りを込めて建立された。この燈籠は鹿沼の技工が鋳造したもので、本体の基部には建立世話人、有志計38人が鋳名されていた。台石が道標になっており、町名の「上町」と「江戸」「白川」の文字が刻まれている。太平洋戦争末期の金属供出でオリジナルは消失してしまった。

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これは現在の金燈籠の鋳名 当時の奉納者名と再建の際の有志の名が並ぶ。世話人に米喜のご先祖の「米屋喜助」の名がある。

昭和30年(1955)7月、町内有志が旧三斗小屋宿からデザインの似ていた遅沢村百人講中により白湯山へ献納された金灯籠を譲り受け「百人講ノ盡力ニヨリ」(現地案内板より 遅沢地区住民に了承を得て、の意味か?要調査)復元した。当時かなり破損がすすんでおり、一対の灯籠の使える部品を一基にまとめ修復し大田原に持ってきたのだそうだ。ちなみに旧三斗小屋宿の全戸離村は昭和32年(1957)のこと。

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岩波書店 「新風土記栃木県 復刻版」 より 昭和30年代

戦後交差点はロータリーになっており、その中央に金燈籠が鎮座していた。しかし時代の推移により車の交通量が激増、何度か金燈籠に衝突する事故があり、交差点の片隅に放置される状態となった。昭和53年8月黒磯市に返還され、現在は北那須ライオンズクラブの尽力により旧三斗小屋宿に再建立されている。

昭和50年代、金燈籠建設委員会が結成され金燈籠の再建計画が持ち上がり、上町内有志を中心とした人々により昭和54年(1979)オリジナルに近いデザインで再建された。文政期から町内の安全を見守り続ける上町金燈籠は、いつまでも大田原のシンボルとして愛され続けるだろう。

で、

今回買ったお茶碗がこれ。

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子供に選ばせたので・・。かわいいデザインの割りにかなりの大ぶりだ。有田かその辺のものとのこと。