白河宿は、奥州道中とその脇街道である原街道(原方道)の終点であり、またさらに北へ向かう白河街道・奥松前道中(広義の奥州街道の続き)の起点でもあった。「白河風土記」にみられる文化年間の宿内を見ていく。
参考:筑波大学付属図書館所蔵 白河城圖
戊辰戦争の時一番の激戦地だった稲荷山から東に折れて松並の集落を山沿いにいく。九番町に入り北に折れる。ここが白河城下の入口にあたり、喰違いの土手になっていたという。現在は南湖公園方面への道ができている。九番町には農兵を置き城下入口の固めとした。続く七番町、三番町は足軽長屋となっていた。小谷津田川を渡り二番町となり、その町北に西へと走る三間一尺幅(5.7m)の道沿いを登町という。これが原街道へ通じる道だ。ちなみにメインストリートは幅六間(10.9m)だった。
一番町角 原街道との分岐点
この先が一番町で、町の中ほど西側に「野郎が茶屋」という陰間茶屋(男娼のいる茶屋)があったという。この場所に一里塚があったが、文化年間には既になくなっている。一番町から九番町を「新町」と称したが、慶長年間には鉄砲町と呼ばれていたようだ。一番町から東に折れて天神町となる。宿内中心部の天神町・中町・本町・横町・田町は「通り五町」と呼ばれ、城下の中心通りとなっていた。
天神町の東端で喰い違いになっていて中町に入る。中町の西のはし道の南側に問屋があった。元は裏町の庄屋が月代わりで駅亭に出て勤務したが、宝永7年(1710)から常盤屋が定問屋となる。中町東のはしの鉤の手北側が大手門口で、その向かい附近に高札場があったという。この附近には他領の使者を接待する「馳走屋敷」があった。また同じ場所に城下町民の子弟を対象とした郷学所があった。中町東のはしの鉤の手を南に曲がり、さらに東に曲がる。この間を「十軒店(じゅっけんだな)」と呼んだ。東に曲がると本町で、旅籠屋が多い地区で本陣脇本陣があった。本陣は町の西端近く南側、脇本陣はその向かいにあった。奥州道中は町の西端の四辻を北に進む。この辺りが横町で、現在東北線のガードを境に田町となる。探知の西端に大木戸があり城下から出る。大木戸から阿武隈川を渡る大橋までが河原町で、享和年間に洪水があり、文化の頃は空地が多かった。
阿武隈川を渡る大橋の先は向寺町で、道幅が3間2尺と狭くなり家人屋敷や足軽長屋が続く。喰違いの土居がありここから向寺の坂となる。三島通庸が福島県令だった頃に最初の切り通しの工事がなされたという。切り通し東側山の上に石仏があり、これが元々の坂道の高さである。道は東にカーブしてその先に二股になっている箇所がある。ここが右奥州街道、左白河街道の追分であった。以前はここに大きな道標があったというが、近代になって道路工事の際にどこかへ埋められてしまったという。
参考:奥州道中 寄居から白河宿女石を歩く
ルートラボを使ったルート再生マップ
参考文献:「歴史の道 奥州道中」福島県教育委員会、「白河風土記」(「福島県史料集成」第4輯より)