がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

宗祗が帰った理由って



白河市原中高湯山一の鳥居に行ったあと、北登町矢場八幡社の道標を探そうと街中をフラフラしたが、またわからずじまいだった。と、上のリンクを張るときマピオンの地図を再度見たら白河第二小の西にあるじゃないか!?元あった奥州街道と原街道のぶつかるT字路からかなり離れた場所だ。その日は、何か手がかりはないかと白河市歴史民俗資料館に行ったが月曜で休館だった。近くなので宗祗返しの碑に寄る。文明13年(1481)、白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で一日一万句の連歌興行を催した際、これを伝え聞いた都で名高い連歌の宗匠、宗祗法師がはるばる奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。その時宗祗は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、女はすぐに 「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそ うるかといへる わたはありけれ」 と和歌で答えた。これを聞いて宗祗は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返した、という伝説だ。東奥の風流って、駄洒落じゃねえか。「うるか」とは川魚の内臓(わた)で作る塩辛。碑の隣に道標があった。隣の和菓子屋は老舗なのだろうか。