1935(昭和10)11月、辻潤が塩原に来ている。辻潤51歳のときである。
精神病院の入退院を繰り返し、貧窮の生活のなか全国のファンを頼って放浪し、金に困ると虚無僧となり、尺八を持って門付して歩く日々。愛人の松尾としとのどん底の生活。
辻と松尾は、塩原に住むファンの処へ厄介になるために上野駅までいっしょにきたものの、辻が一杯やっているうちにはぐれてしまう。松尾は辻が先に塩原に行っていることを信じて、先に塩原へ向かった。その時辻は錯乱状態となり、王子の滝之川警察署に一週間監禁されていたのだ。釈放され、息子の辻まことが辻を松尾のいる甘湯温泉に連れて行くことになる。
「ぼうふら以前」(S11)より
西那須についたのが、なんでも午前三時何十分とやら、乗合は午前七時でなければ出ないというし、特別にハイヤアの名に負かず、六七円もとられるというし、どうするのかと思っていると、M(まこと)は五六里ならわけはないから歩こうというのだ。随分、無茶なことをいうと腹の底で考えてはみたが、歩くことはさして不得意という程でもなく、久しぶりで田舎の街道を伜と夜行をするのも面白かろうと、一も二もなく賛成して歩き始めたのである。
辻潤とまことは上野を夜出発して、宇都宮で「白雪」の四合瓶を一本とノシイカを買い、チビリチビリやりながら西那須野駅に着く。
駅の様子(S6)
真夜中の午前三時に到着する汽車があったのか?当然まだ蒸気機関車の時代だ。
当時の上野から西那須野までの所要時間は普通で3時間13分、急行で2時間32分とのことだ。すると上野発午後11時代の汽車が、宇都宮止まりでなく黒磯まで来ていたのか。
西那須野駅前(S6)
駅前の観光客の呼び込み(S2)
1912(明治45)年開通した西那須野~関谷間の軽便鉄道、塩原電車(塩原軌道)は、不況などの理由で1932(昭和7)年には運転を休止している。塩原温泉に行く手段は、1917(大正6)年より大和屋・川島屋が運行している貸切自動車(これが文章中のハイヤアか?)か、関東自動車の乗合バス・乗合自動車、1907(M40)年ごろ始まった乗合馬車(トテ馬車)、ごく僅かだが人力車があった。真夜中の午前三時では、これらのどれにも乗ることはできず、歩いていくほかない。駅から塩原の甘湯温泉まで約22キロを徒歩で行くのだ、しかも夜中に。
西那須野から塩原温泉までの道のりは、1889(M17)年三島通庸が開削した会津三方道路のひとつ、塩原新道(塩原街道・現R400)を辿っていくものだ。駅前商店街を過ぎると塩原新道と同じ時期に開通した新陸羽街道(現R4)のクランクにさしかかる。
街道沿いのまんじゅう屋「信鶴堂」(M45)
新陸羽街道は、信鶴堂のあった三島十字路を塩原方面に曲がり、現在スーパーみますやが建つ十字路を右折して黒磯方面に向かう。みますやの十字路には明治43年に建立された烏ヶ森参道入口の道標が建っている。三島農場事務所のあった場所には現在那須野が原博物館があり、ここもちいさなクランクになっていた。そこから先の行程は田んぼと林を抜けていく田舎道だ。
三島農場事務所(S7ごろ)
赤田の田園地帯を過ぎると、千本松と呼ばれる針葉樹の森の中を抜ける。松方正義の千本松農場は、1898(M26)年に那須開墾社より土地を譲り受け、欧米式の大規模農場を開いた。その後、1928(S3)年に蓬莱殖産株式会社(現:ホウライ株式会社)が農場経営を引き継いだ。現在も那須千本松牧場として観光客で賑わっている。 街道から少し入った林の中に1903(M36)年に建った洋館、松方別邸「万歳閣」が今も残っている。
松方別邸(昭和初期?)
千本松を抜けると関谷宿だ。ここから山道になり、箒川沿いの渓谷をすすんでいく。
ガマ石入口附近(T13)
新塩原口停車場(T11)
辻に何度かファンレターをくれたという塩原の青年、「ソルボンヌ大学を出ている」と名乗る自体アヤシイと思わないか普通?
としが手紙に書いてある住所を訪ねていくと、その青年はいるにはいたが、住まいは山の上の三畳あまりのわら壁の掘っ立て小屋だった。中には囲炉裏があるきりの乞食同然の生活だったという。辻は先に来ておらず、青年の家にはとてもやっかいになれそうもないので温泉旅館に案内してもらった。宿泊した場所は甘湯温泉霞上館である。
現在塩原温泉郷には甘湯温泉という場所はない。「甘湯」という名前が付くからには小太郎ヶ淵のある甘湯沢のことか。塩の湯・高原山越えの道から入る小太郎ヶ淵の入口に「甘湯温泉」の朽ちかけた看板が建っている。リウマチスなんて言葉が時代を感じさせる。
崖のつづら折れを降りると右側が小太郎ヶ淵で、草団子が有名な茶屋がある。沢沿いに上っていくと右側にすっかり藪に覆われた、かつての甘湯温泉旅館がひっそりと建っている。
「ぼうふら以前」(S11)より
私は今、万人風呂のイの一号という部屋に納まって梅干で朝茶を呑みながらボーフラの第二号にとりかかろうとしているのだ。この辺一帯を一名甘湯沢といって、甘茶のようなもしくは甘露のようなお湯があちらこちらから吹き出しているのでそんな名称がつけられているのだそうだ。僕のような世間知らずの甘チャンにとっては至極クワイト アット ランドムに納まりかえることが出来ることと、なんとなく今から気安いかんじをしながら梅干で朝から茶などを呑んでいるのである。
「ぼうふら以前」(S11)より
まったくこんどの塩原の紅葉をみて渡しは始めて紅葉のうつくしさと秋の山の豊麗(ポラプチュアス)な味わいを身に沁みて感じることができたのであった。
万人風呂でT女と三人で湯にあたって鯉のアライなんかで一杯やりながら万山の鹿の子斑らな肌触りを思う存分にアプレシェート出来たのは千載の一隅とでも多分いうのであろう。
雪の降るある夜、松尾としの部屋の前を犬が4、5匹うろうろ駆け回るので、起きてみると辻が行方不明になっていた。野天風呂の近くにズブ濡れのドテラが捨ててあり、としは嫌な予感がして、凍りついた坂道を上がっていくと崖になった藪の中に意識不明の辻が倒れていた。身体はカチカチに凍り、抱き起こしてみると舌を出したまま噛んでいた。としは辻を部屋まで運ぶと、辻の着物を剥いで裸にし、自分も襦袢一枚になり体温で暖めた。そのときとしは妊娠5ヶ月であった。
旅館の主から二人は心中しにきたものと勘ぐられ、出て行ってほしいと請われる。文士が遭難、塩原だけに「煤煙事件」が頭をよぎるのは無理もない。宿を発つ際、宿賃が足りなかったのか、女将から「薄紅葉」と言う銘の尺八を要求され置いてきた。ついでに十枚ばかり半切を書いてくれと乞われ書を書いたという。その時の句が
塩原や霞の上の昼寝かな
これはもう、句碑を建てるしかないでしょう。
参考文献
「ダダイスト辻潤」玉川信明/論創社 285-290p
「辻潤への愛 小島キヨの生涯」倉橋健一/創樹社 196-197p
辻潤著作集5 「螺旋道 ぼうふら以前」オリオン出版社 194-199p
昔の写真引用
「新町40周年記念写真集 レンズがとらえた西那須野」/西那須野町郷土資料館 ====
追記
この記事を書いた時点では知らなかったのだが、辻潤のエッセイに出てくる万人風呂とは、袖ヶ沢温泉万人風呂霞上館のことである。