がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

集落と街並

薄葉の問屋

日光北街道、箒川を渡り河岸段丘の坂を上がると薄葉宿がある。薄葉にはひとつの宿に2軒の問屋があった。「宿の問屋」渡辺家と「入(いり)の問屋」印南家だ。大田原晴雄氏によると、宿の問屋渡辺家は日光北街道の問屋であるが、入の問屋印南家はどこからの…

遊里跡を想う

今市の「日光珈琲・饗茶庵」の建物を観に行ったきっかけで、栃木県北にあった遊郭・赤線跡が今どうなっているかに興味を持った。今でも妓楼やカフェー風建築物が残っていたりするのだろうか?世間には同じような興味の人がいるもので、赤線跡の写真集や研究…

歓楽街の記憶 親不孝通編

’71住宅地図と現在の住宅地図を比較して、大田原の繁華街で40年以上同じ場所で営業している店舗を調べてみた。一番知りたいのは親不孝通りの店舗の移り変わりなので、中央1丁目付近だけなのだが。 大きな地図で見る 薬師通り 二葉屋と片岡屋薬師通り沿いの…

歓楽街の記憶

かつて、大田原の盛り場の中心といえば上町のこの路地であった。高度成長期以降、このわずか80m余りの路地だけでは手狭となり、中央1丁目、いわゆる「親不孝通り」が新たな繁華街として発展していく。 この路地の名称だが、ずっと「上町通り」と呼んでいた…

那須の漬を探そう

大正だか昭和初期に大田原の名物として一世を風靡したという「那須の漬」。どうやら福神漬けのようなものだったらしい。以前、教授と呑んだ時に建物が残ってるよ、と教えて貰ったことがあった。ずっとこの話を忘れていたのだが・・。先日、薬師通りを車で通…

大宮宿と上平河岸

塩谷町の旧大宮宿。 ここは、玉生から大宮、上平渡を経て宇都宮に向かう田原街道と、かつて氏家阿久津河岸に荷物を運んだ会津西街道大宮通りの分岐点。この場所にも「立場」の屋号の店がある。「塩谷町史」によると、大宮には明治期に建場があり、荷馬車一台…

たてばの名残り

「たてば(立場・建場)」とは、街道筋の駕籠や荷馬の人足が休憩する場所で、「継立場(つぎたてば)」あるいは「継場(つぎば)」とも呼ばれる。宿場間の距離が長い場合の休憩所の役割をし、ある程度の大きさの集落となり宿屋などの施設がある場合は「間の…

まるめしあん@下伊佐野

下伊佐野堀ノ内のまるめしあん。下伊佐野堀ノ内といえば伊佐野道(石上道、伊佐野側からだと大田原道)の到着点。R4日産プリンス脇から法善寺、伊佐野道の馬頭観世音前を通り箒川渡河、雲入から堀ノ内というルートは現在でも地図上で推定できる。石上は大…

会津西街道の相之道通り

今市の相之道通りにやってきた。かつては今市銀座と呼ばれ賑わっていたこの通りは、かつての旧街道、会津西街道と日光北街道の起点となる場所だ。「アヅマヤ」の角から入る路地。現在でも日光北街道のルートを行く大渡が終着点のバス路線がある。起点は日光…

白河宿を歩く(覚書)

白河宿は、奥州道中とその脇街道である原街道(原方道)の終点であり、またさらに北へ向かう白河街道・奥松前道中(広義の奥州街道の続き)の起点でもあった。「白河風土記」にみられる文化年間の宿内を見ていく。参考:筑波大学付属図書館所蔵 白河城圖戊辰…

宇都宮の変貌ぶりに驚く

久々に宇都宮に出る。御本丸公園(城址公園)の近くを通ったので、建設中の復元工事現場を一周してきた。何時の間にこんなことになっていたのだろう?工事は2002年から始まっていたようだ。月曜なので資料展示施設の清明館は休みだった。宇都宮と栃木県関連…

消えた藤荷田村

那須野ヶ原公園の南口近くの分譲地に、六角地蔵と如意輪観世音がある。この場所は旧谷中官有地といわれる場所で、足尾銅山の鉱毒汚染で明治37年11月に集団移住してきた人々が入植した土地だ。如意輪観世音には文久2年10月と刻まれているので、それ以前の建立…