がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

西那須野初市2022

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日が暮れて西那須野初市にやってきた。昨年早々から黒磯花市の中止がアナウンスされ、ほかの花市・初市はどうなることかと危ぶまれた。年末からの変異株の拡大でよもやと思ったが無事開催となった。例年1月11日に開催されていた「花市」の名称が今回より「初市」に変更、毎年1月の第2日曜日に開催されることになった。まあ確かに縁起物のだるま屋さんが2軒、植木屋の出店や華やかな熊手や福笹や造花の屋台もないこじんまりとした花市ではあったが。

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今年は正午からの開催で、客寄せに「大道芸人フェスティバルinにしなすの初市」というイベント行った。クリオーネさんとなっちゃんが来たようだが、仕事で行けずじまい。こんな機会はなかなかないのに。

n-shokokai.or.jp


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密になることもなく屋台めぐりが出来るのは良いことだが、初市自体の存続があやぶまれてしまう。


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割烹いとうの駐車場でテキ屋さんとは別の地元飲食店有志の出店が。竹清食堂さんや郡司商店さん、ほかにしなすバル協賛のお店さんかな。

第5回にしなすバル 当日券を販売している店舗一覧 | 西那須野地区商店会| きらきらホットなすしおばら[那須塩原市]


屋台の列がすぐ終わってしまうよ。花市・初市の文化は残ってほしいよね。

 

 

栃木県北 花市・初市2022日程

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令和4年の県北の花市・初市は、新型コロナウイルス感染症第6波流行の懸念により早々に中止を決める自治体もあったが、とりあえず開催する方向で検討している様子。県中・南の初市情報もいくつか調べたのでそちらも掲載する。

不明な地域の情報ご存知の方お知らせください。

 真岡市観光協会
2022年初市(だるま市)開催 (寿くじ中止のお知らせ)
1月9日(日)9:00-18:00  荒町五行川沿い

2022年初市(だるま市)開催及び寿くじ中止のお知らせ | 真岡市観光協会 Moka City Turist Association


小山市公式ホームページ
~まちに新春を告げる小山の初市~

1月10日(月)10:00~15:00 
まちの駅 思季彩館、小山駅西口祇園城通りおよび阿夫利通り

令和3年度『小山の初市』開催のご案内 - 小山市ホームページ


宇都宮観光コンベンション協会

「初市」開催のお知らせ
1月11日(火)10:00~20:00 上河原通り

宇都宮観光コンベンション協会


上三川町公式ホームページ 
初市(ダルマ市)の開催について
1月16日(日)14:00-19:30 上三川通り(中央通り)西側歩道

初市(ダルマ市)の開催について | 上三川町公式ホームページ

 

栃木県北 花市・初市2022日程

 「さくら市氏家暮市」中止

さくら市氏家花市」 中止
 毎年7日に開催

暮市・花市の中止について - さくら市ホームページ

 
「初市(東那須野地区)」 不明
 毎年10日あたりに開催
 公式情報見当たらず
那須塩原市商工会東那須野支部フェイスブック


「初市(西那須野地区)」 1/9(日)12:00-20:00
   JR西那須野駅西口桜通り 毎年第2日曜日開催
例年1月11日に開催されていた「花市」の名称が今回より「初市」に変更
毎年1月の第2日曜日に開催されることになった

西那須野商工会フェイスブック


「花市(大田原地区)」 1/12(水) 10:00-21:00
  白河信用金庫前~栄町屋台収納庫前 毎年12日に開催
広報おおたわら(令和4年1月号)
黒羽地区の中止についての記述あり

「花市(矢板市)」 不明
 毎年13日に開催
 公式情報見当たらず

矢板市観光協会

 

「花市(佐久山地区)」 1/16(日) 10:00-16:00
 佐久山地区公民館駐車場 通常毎年14日に開催 

広報おおたわら(令和4年1月号)
黒羽地区の中止についての記述あり

 

「黒田原花市」 不明
 毎年第三土曜日に開催
 公式情報見当たらず

那須町観光協会フェイスブック

黒田原駅前にぎわい商店会フェイスブック

 

「黒磯初市(花市)」 中止

「黒磯初市」中止のお知らせ | 那須塩原市商工会

 

「黒羽花市(黒羽地区)」 中止
広報おおたわら(令和4年1月号)


B定 IS BACK!!ふんよう豚バラ香料煮の再現メニューに出会う


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美原の「中華そばおおの」さん。最近知った無化調のラーメン屋さんなんだが、「ふんよう菜館」のいわゆるB定、Bランチの豚バラ香料煮が食べられるというのだ。

 昨年惜しまれつつ閉店した宇都宮二荒町の「ふんよう菜館」、荻窪のふんよう亭で修業したご主人が約35年前に開業。当時は学生客が多く、安価でボリュームのあるメニューが魅力だった。看板も出ていないあやしい店構えだが、当時からのリピーターや口コミで知った旨いもの食べたさのヘッズたちが足しげく通った名店。昨年1月の閉店の際にも別れを惜しむファンで行列が出来た。

 

garitune.hatenablog.jp

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「ふんよう菜館」のふんようとは中国山西省の都市、汾陽(ふんよう)のこと。荻窪「ふんよう亭」のご主人が中国東北部で食べた料理をもとに作り上げた味。暖簾分けである宇都宮「ふんよう菜館」の本格的な中華料理のテイストにはそういう理由があったのか。餃子に中華サラダ、唐揚げにチャーハン、なんでもうまかった。

 

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あれから1年、ふんようロスは収まらず、再開、あるいは継承する味の店の情報はないものか、と思っていた矢先の、地元県北からのビッグニュースである。


「中華そばおおの」さんは毎月29日のニクの日にこのふんよう豚バラ香料煮の再現メニューを提供している。「中華そばおおの」の店主さんはふんよう菜館の2階でお店をやっていたとのお話で、ふんようのおやじさんから直接レシピを伺ったとのこと。それってもうふんよう直伝、継承の味じゃないですかっ!!

かつてのふんようの2階といえば、伝説の夜のサテン 「マルコバー」。マルコバーの店主だった方は沼野田和のラーメン店、森商店をやっている方のはず。ネットで調べたらマルコバーは2012年閉店のようなので、それ以降に居抜きで入ったお店なのだろうか。それにしても、聖地と県北がこんなかたちで繋がっているのはおもしろいな。

グルメガイドイン関東+α マルコバー

www.clover4.co.jp



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29日のニクの日当日、オープン前から並び、件の豚バラ香草煮込をテイクアウトさせて頂いた。単品2人前分だけど、タッパー持参だったので端肉をオマケしてくれた。

ふんよう閉店以来、何度B定を夢に見てヨダレで枕を濡らす夜を過ごしたことか・・。ふんようのカウンターに鎮座する豚バラ塊肉への思いがいま実体化したのだ。ボリューミィ!盛り付けのセンスのなさはご了承いただきたく。

 

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 晩ごはんにレンジで温め、家族皆で食べてみる。トロットロの肉片が口の中で溶けてうま味が広がっていく。ああ、この味・・。ふんようB定の味と繋がった記憶が、思い出が次々とフラッシュバックする。オリオン通りの雑踏と喧騒、輸入盤のレコードを取り出すときの至福の匂い、映画館の暗闇の中で上映を待つドキドキワクワク・・ 。ふんようファンの皆さん、県北のおおのさんであの味が堪能できますよ~!


そばの神田@郡山駅西口



なにかと話題の郡山駅西口徒歩3分のそばの神田にきた。間口も広く入りやすい。インパクトのある看板が目に飛び込む。店内から漂うかぐわしい香り。

駅チカなのにこの価格設定、すごくない?
天ぷらそば わかめそば 月見そば とろろそば カレーうどん きつねうどん
が390円均一!! 冷やしは各種460円。ざるは410円。

 

天ぷらそば390円。「さかえや」的な天ぷら、これはこれでつゆでくずれたグズグズ感がたまらん坂

立ち食いカウンターと奥に座り席三脚。個人経営の


ツユも好みだ。喉越し最高!ビバ立ち食い!

何だかんだ言っても そばはやっぱり神田そば!!また来ます!


狐塚之址

県道182号線(東小屋黒羽線)沿いに川西町文化会が建立した「狐塚之址」の案内碑がある。

那須郡誌」によると、

かつて旧金田村(現大田原市)小滝、乙連沢、篠原の境界線の北方に狐塚(きつねづか)と呼ばれる円い塚があったという。この塚は玉藻稲荷神社の近隣にあり、那須野九尾の狐の屍を埋めた処だと伝えられていた。昭和の初め頃にこのあたりは開墾されて現在は全くその形を止めていない。開墾で塚を崩した時、中から直径一尺(30cm)くらいの底が平らで浅い焼き物の瓶が出てきたという。中は土だけで何もなかったというが骨壺だったのかもしれない。 実際はもともと「古塚(こつか)」と言っていたものを「狐塚(こつか」と書くようになり、「きつね塚」と訓読したものと考えられる。 「狐塚之址」の碑は、なんの痕跡もない伝承の地を後世に伝えるために昭和22年に川西町文化会が建立したものだった。 旧両郷村(現大田原市)の大塚にある大塚古墳にも那須野九尾の狐の尾を埋めた塚であるという伝承がある。

「日本九峰修行日記」の野田泉光院が金田村に滞在した際に、篠原稲荷を詣でている。その近くにある狐塚についても触れている。

十四日 晴天。滞寺。朝早々より篠原稲荷と云ふに詣づ。此所玉藻の前に化けし狐の墳所と云ふ、 小社也。後ろに少しの小塚あり、骨塚と云ふ。是れ狐を埋めたる地と云へり。一句、
狐火の光りも薄し雲の下

参考文献:「那須郡誌」 蓮見長、「那須郡誌」 那須郡教育会編、「日本九峰修行日記」野田泉光院

久那瀬河岸@馬頭

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那珂川 八溝大橋 上大桶側から

那珂川の水運はかつて重要な輸送手段で、黒羽から那珂湊までの河岸は江戸時代中頃までには整備されていた。

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那珂川町の久那瀬地区。ここにはかつて水戸藩領武茂郷最大の久那瀬河岸があった。開設は宝永5年(1708)。河岸には領主の公認を受けた河岸問屋が置かれ、水戸藩の御蔵が2棟造立されていた。このあたりにはかつて「十三軒長屋」と呼ばれた筏乗りの住む集落があった。


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栃木県立博物館 第112回企画展「川のあるくらし ~栃木の漁師の玉手箱~」

http://www.pref.tochigi.lg.jp/c01/houdou/documents/h27muse_life_river.pdf


河岸の場所にだいたいのアタリはついていたが、確証を得るために現地の方にお話を伺った。たまたまお会いできたのが久那瀬で川漁師をされている佐藤川魚店の佐藤実さん(78)だ。あとから確認したら、県博の企画展「川のあるくらし」や「栃木民俗探訪」でも登場されている方で、那珂川川漁師の民俗や漁法、漁携用具調査では重要人物なのだった。

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「栃木民俗探訪」下野新聞社より

栃木民俗探訪 とちぎの小さな文化シリーズ(4) (とちぎの小さな文化シリーズ (4))



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佐藤さんの案内で下久那瀬河岸に行ってみた。さすが現役の川漁師さん、足元の悪い岩場をもろともせず、ずんずんと前を進む。

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下久那瀬河岸跡

明治の初期における馬頭の河岸は、特に久那瀬河岸と三川又河岸は渡船場もあって繁盛した。明治13年時点で、馬頭には広瀬・三川又・久那瀬・東富山の四つの河岸が存在した。

那珂川中流域の久那瀬付近まで来ると長さ8間半、幅6尺3寸、水深2尺、米100俵を積める鵜飼舟(うかいぶね)が使われた。茂木から久那瀬あたりでは胴高舟(どうたかぶね)と呼ばれる、鵜飼舟と大きさは変わらないが胴が1尺ほど深く、急な瀬でも水をかぶらないよう胴を高くした帆船が使用された。効率的に荷物を運ぶために水深が深く緩やかな流れの下流域に来ると大型舟に集積する。那珂川では中請け積替え河岸として常陸の野田、長倉河岸が活発だった。

 

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下久那瀬河岸には段丘上から川面に降りる桟橋がかかっていた。崖を削って作った岩棚に板をかけ、谷側の支柱杭で桟橋を組んだという。今の水位に対してかなり高いところにあるかんじだ。かつてこの付近の那珂川の水面は現在より2mくらい高かったらしい。新幹線の工事の際に川砂利をさらったんで川底が深くなったんだ、と佐藤さんはおっしゃっていたが定かではない。

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緑色の草が並んで生えている部分が棚になっている箇所

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泥で埋まった支柱杭の穴の場所を教えてくれた。

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岩盤に作られた桟橋の支柱杭が建っていた穴

那珂川の舟を利用した輸送は旅客より荷物が中心であった。下り荷としては米穀類、酒、醬油、油類、漆、たばこ、楮、薪炭などで、上り荷には味噌、塩、魚、油、木綿、肥料などが積まれていた。

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馬頭は近世から優良な木材の産地として知られ、伐採された木材は馬車で河岸に運ばれて、集積された木材は筏(いかだ)に組まれ水戸市場などに輸送された。久那瀬河岸は材木を組んだ筏流しが盛んで、長さ3.6mの杉、檜などの丸太を藤づるなどで幅約3m長さ25mに組み、これを三組つないだものに六人の筏師が乗って一日半で水戸に着いたという。

筏流しが盛んであった当時、筏師たちの生活を歌った情緒豊かな「筏節」が久那瀬地区に残っている。

 ・ハアーエー
 那珂川難所の加波簗越せば
 歌も出てくる筏節
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 主が竿さしゃ私もともに
 ご飯炊き炊き舵を取る
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 那珂川ならいの水さかずきは
 誰が水あげするじややら
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

・ハアーエー
 那珂川下りの筏の小屋は
 大黒柱は藤の蔓
 ハア前かじゃゆるいぞ
 ふんばれがんばれ

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久那瀬の渡船場にできた八溝大橋(昭和60年竣工)


那珂川で筏流しが行われたのは昭和2、3年頃までだ。明治19年(1886)に東北本線が黒磯まで開通し、東野鉄道が大正7年(1918)に黒羽まで、同13年には小川まで開通した。また大正12年には烏山線が全線開通した。大正8年に小口-小川間に那珂橋が架橋されると氏家駅烏山駅などを通じて木材は鉄道輸送されるようになった。鉄道により荷物を大量に迅速に輸送することが出来るようになると、那珂川沿岸の荷物輸送は鉄道に奪われ、那珂川の水運は衰退していった。

 

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川に面した崖に何か所か大きな穴が開いている。用水のたまった砂をかきだす穴だよ、と佐藤さん。

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中を覗きこんでみるとちょっと中腰にかがんだぐらいの高さの縦長の隧道が岩盤の中を通っているではないか。江戸時代に近江商人が新田開発のために作った手掘りの用水だという。

近江国滋賀県)出身の近江商人で、馬頭村で酒造業を営む富商、外池宇兵衛教意・正西は、私財を投じて松野河原の新田開発のために久那瀬地内の武茂川より松野から富山に至る「松野用水」を拓いた。天保6年(1835)に完成したこの用水は16年の歳月を費やし、正西は用水と開発した新田のすべてを水戸候に献上した。

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槌と鑿で岩盤を掘った用水の隧道はちょうど佐藤さんのお宅の裏側に出て地上に出てくる。こんなすごい遺構が特に案内板もなく存在していることに驚いた。

参考文献:馬頭町史、栃木民俗探訪

大山田、須佐木の映画館 河原坊劇場と山形屋

常設館ではないが、八溝山麓の劇場を紹介する。

黒羽東毛座について当時スタッフだった方からお話を伺ったとき、東毛座と「掛け持ち」での上映を行なっていたと教えてもらった、那珂川町大山田上郷の河原坊地区にある劇場の場所を観に行った。掛け持ちとは、1本のフィルムを複数の劇場で使用することで、劇場間をオートバイや車、自転車でフィルムを運び、同じプログラムを複数館で上映することである。



河原坊劇場
馬頭町大山田上郷951 現住所:那珂川町大山田上郷951
木造二階建 約100席
開業、閉館不明

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栃木の峠―峠でたどる暮らしと文化」桑野正光(2010)に、大山田上郷の河原坊地区から須賀川に抜ける小元峠を紹介するページがある。その記事中に河原坊地区にあった「河原坊劇場」が出てくるのだがその文章を紹介する。

この小さな集落に、「河原坊劇場」という大衆劇場があった。今も外観がそのまま残り、劇場で使われた長いすが近所の軒先に置いてある。来演者の中には村田英雄もいたという。この小さな集落にかつては料亭もあり、昼から三味線が聞こえるほどの賑わいであったという。その賑わいを支えていたのが砂金と葉煙草である。

ご近所の方に確認したところ、当時の河原坊劇場の建物はすべて壊されて、この工場が建てられたとのこと。手前だけが2階建てで奥が細長く平屋になっており、あやしいなとは思っていたのだが、ご近所にお住いの当時掛け持ち(フィルムの運搬を行う業務)をされていた方の話だと、この建物は玩具工場になってからの建物とのことだ。

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河原坊集落は雲岩寺、須佐木から馬頭の健武に抜ける街道(雲岩寺道、健武道 現R461)沿いにあり、また小元峠を越えて須賀川へ通じる要所でもあった。葉煙草の収納所のあった河原坊集落は大いに賑わい、劇場やパチンコ店、料亭まであったという。葉煙草収納所(現在は大野ゴム工業馬頭工場がある)へ通じる河原坊銀座通りは、葉煙草の納付払いの日には道の両側に長靴や下駄などの日用品や雑貨を出店が出たという。須佐木や馬頭の商店が出張していたのかも。ある方はその臨時の市で下駄を買ってもらって嬉しかった思い出を語ってくれた。

 

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かつての小元峠入口

この付近の葉煙草は江戸期より「大山田煙草」として有名で、近隣の地域でも副業として葉煙草の栽培を行っていた。須佐木や雲岩寺集落でも民家の脇に葉煙草を乾燥させる小屋があった。西那須野のほうだとかつては農家には蚕小屋があったりしたが、貴重な収入源だったのだろう。
また大山田下郷から健武にかけて古代より金の鉱脈があることが知られ(那須のゆりがね)産金がおこなわれていた。かつて猪沢(イノッツァワ)に金山があり、また何か所か砂金が採れる沢があって、昭和30年代まで砂金採りは行われていた。業者が採取した砂金を買い付けに来たそうだ。今も時々鉱物趣味の人が訪れるという。

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河原坊銀座通り かつての葉煙草収納所の場所には大野ゴム工業㈱が営業している。通りの中ほどに40年ほど前から営業するきらく食堂がある。昼時ともなると近所の現場や工場で働く人達や近所に住むご隠居さんなど、きらく食堂のご夫婦と味を慕う人たちでにぎわう。きらく食堂を始めた時には前の玩具工場はすでに営業していなかったそうだ。(玩具店は昭和42年には営業を終了していた)

 

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この建物は劇場当時のものでないことは述べたが、劇場があった頃のお話を聞いたのでまとめておく。

劇場は二階建てで表面は板張り、入口は現在の建物だと大谷石で覆われている付近で一段高くなっていた。劇場建物の左手に楽屋として利用された建物があった。集落の入口のクランクしている付近から劇場の脇に路地が伸びていた。椅子は背もたれなどない4人掛けの木製ベンチが2列で5行並んでいた。床は土間で水平、舞台があり、両脇に板張りで手摺りのついた1m幅くらいの二階桟敷があった。建物の裏には跳ね上げ式の窓(大道具搬入口か?)があった。

S30年代後半の入場料は子供20円、大人40円。その頃1日の日雇いの稼ぎが200円くらい。映画が上映されるのはひと月に1回か2回で、黒羽東毛座が掛け持ちで上映した。上映日が近づくとあちこちに手書きのポスターが貼られた。当初は白黒映画だったがS32、33年頃、ポスターに大きく「総天然色」の文字が躍った。カラー作品の映画がやってきたのだ。

掛け持ちで前の劇場からフィルムが届かずにしばらく中断して待つこともしばしば。途中でフィルムが切れて繋ぎ直すまで真っ暗な中しばらく待つこともあった。ブリキの入れ物(円盤などと呼んだ)に入ったフィルム缶が2、3本ずつ到着する。映画の上映がある日は子供たちが劇場に集まった。届いたフィルムを映写室に運ぶ作業を手伝うとタダで映画が観られるのだ。2人か3人のお手伝いの枠を巡って朝早くから子供たちが待っていたという。

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馬頭輸出玩具製作所 と読める。人形を作る縫製工場だったらしい。

旅芝居の一座が来ると、集落を「チンドン屋」が歩いた。チンチン ドンドン チンドンドンと鳴り物を叩きながらチラシを配る。多分一座の人たちが自分たちでやるのだろう。お化粧をして着飾ったチンドン屋に子供たちがぞろぞろとついていく。子供たちは親に行きたいよ、行きたいよぉとせがんだ。その頃は集落には子供が40人くらいいたそうだ。現在はこの近隣の5つ小学校が統合しても、この春の新入生は7人なのだそうだ。

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昔この辺りは働き口も限られており、山仕事ぐらいしかなかったのでみんな貧乏だった。でもまわりもみんなそうだったので、くやしいとか悲しいとかはなかったな、と語ってくれた。今は自家用車で仕事のある地域に通えるので、そんなことはなくなったんだけど、代々暮らしてきた愛する土地を守っていく苦労は図り知れないものがあっただろう。

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馬頭輸出玩具製作所の建物を裏側からみたところ

ご近所にお住まいの掛け持ちを手伝っていた方の話。
本業は建具屋さんだったが、若い頃、伊王野の伊王野倶楽部や黒磯の金剛館への掛け持ちを手伝っていた。東毛座の興行主の鈴木さんがこちらに来られる時はいつもお宅でごはんを食べて行った。体は小さかったが、絵の具で描くポスターの文字は達筆で見事なものだった。河原坊劇場で映画をやるときはお姉さんも頼まれて木戸銭(映画の代金)の徴収を手伝った。当時東毛座には助手が大勢いて、掛け持ちや看板作り、ポスター張りをやっていた。その頃は360ccの軽自動車でフィルムを運んでいた。家の一軒もない鍋掛街道は穴ぼこだらけの砂利道で、暗闇の中進むのは怖いし、当時の車はプラグかぶりしやすく大変だった。多いときは5か所くらい掛け持ちで上映したので、集めた木戸銭は相当な額になった。須佐木の山形屋だけでなく、南方や川上でも農家の広い庭や乾燥小屋を借りたり、須賀川の製材所を借りたりして興行を行った。母畑温泉(福島県石川郡石川町)や芦野温泉で興行したこともあった。


河原坊集落にはかつて旅館もあり、併設して飲み屋やパチンコ屋まであった。劇場は本当に掘っ建て小屋で、下水がなかったので大雨が降ると床が水浸しになって大変だったそうだ。

東毛座の手前にある永井ラジオ店さんと助手仲間のIさんと自分で、真空管の中古を利用してステレオをいくつも作って販売したのを覚えている。建具屋なのでスピーカーボックスを作った。店の前でレコードを掛け大きい音で鳴らしてデモンストレーションをした。

 

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山形屋
黒羽町須佐木161 現住所:大田原市須佐木161
当時の構造、席数不明
開業、閉館不明

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雲岩寺手前の須佐木に山形屋商店はある。山形屋は食堂と精肉店を生業としていたが、昭和30年代その建物は劇場として使われた。黒羽東毛座から掛け持ちで山形屋で上映し、さらに河原坊劇場にフィルムが回されていたという。

山形屋商店は芝居の公演でも使用された。旅芝居の一座も1週間ほど滞在し、舞台を上演したという。情報がないので雑文を書くよ。旅芝居といえば、西那須野に那須ヘルスセンターという施設があった。休憩室も兼ねた演舞場と入浴施設が合わさった芝居小屋の進化型だ。那須ヘルスセンターはその後スポーツクラブのスイミングの施設になったが、社名として今も残っている。大衆演劇の一座が短期間公演を行うんだが、一座の子どもがその間だけ近くの小学校に転入してくるんだ。やっと友達になったらすぐ転校で本当にかわいそうだった。

山形屋で思い出すのは、黒羽藩御用達鍛冶の山形屋であるが、そちらは今も後裔の方が金属加工業をされている。なにか関係があるのか?・・芝居好きが高じての小屋運営なら「忠治山形屋」のほうかもしれない。国定忠治の元ネタの講談だ。

何か新しい情報が分かり次第更新します。

河原坊劇場と山形屋の記憶、思い出、関係資料についてご存知なことがありましたら、書き込みして頂けるとうれしいです。

 

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 今回の劇場の情報は詰めが甘かったですが、旧峠情報に関しては間違いない!読んでるだけで楽しい旧道廃道愛好家必携の本です。