がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

昭和30年の栃木の酒

栃木県商工要覧 昭和30年版 酒類 工業の項より

本県は米産県として知られ、その上適水、気候ともに恵まれて古くから酒造工業が盛んで関東地方の銘醸地として知られている。 現在工場数66工場によつて、昭和29年度の醸造石数は清酒約5万石、合成酒、焼酎等約 2,000石 (専業工場8、兼業2) が生産されており、品質も全国一流メーカー製品に比べて遜色なく県内需要を充すほか近県に移出しているが、嗜好の点から県外酒も相当移入されている。

栃木果酒造組合名簿

f:id:gari2:20210207194437j:plain

参考:「栃木県商工要覧 昭和30年版」栃木新聞社

 急ごしらえで表が画像ですみません。何か気づきがあれば追加します。

garitune.hatenablog.jp

 

garitune.hatenablog.jp

 

garitune.hatenablog.jp

 

瀬縫のお不動さま

那須町高久上瀬縫にある瀬縫のお不動さまに行ってきた。 瀬縫のお不動さまは、かつて大変ご利益があることで知られ、広く信仰を集めていた。

戦前は毎月28日に瀬縫不動尊の縁日があり、特に旧正月と旧7月には夜明け前より黒磯駅から続く街道には参詣者の流れが続き、街道沿いには多くの露店が出たという。

f:id:gari2:20210126173514j:plain
上瀬縫の集落を抜けて不動尊の手前の滝の本集落センターの十字路から。現地の方に訊いたら、戦後も縁日の日にはこの参道沿いに露店が並んでいたそうだ。

黒磯市誌でこの瀬縫の不動尊の話が出てくるのは、黒磯駅の成り立ちと乗降客についての項なのだが、温泉地の最寄り駅として季節により利用客が増減したが、毎月28日、この瀬縫の不動尊の参拝客で駅がごった返したというのだ。正月、7月の縁日の日は列車の増発まであったという。

f:id:gari2:20210110121256j:plain
それほどのご利益があったという瀬縫の不動尊。現在では藪に包まれてひっそりと静まり返っている。

f:id:gari2:20210110121213j:plain
うっそうとした通路を抜けると広場になり、灯籠と歪んだ石段があり一段高くなった山の斜面にちょっこりとお不動さまが安置されている。入口の灯籠は昭和36年9月、東京都千代田区西神田のT夫妻による建立。清水の近くの灯籠は同住所同姓違う夫妻による昭和25年旧1月28日の建立。

 

f:id:gari2:20210126173638j:plain
祈願かなった人たちが感謝を込めて社殿を造営すると、たちまち暴風雨が起こって破壊されてしまったという。格式や権威が嫌いなお不動様らしく、今も露天に安置されているのだという。

f:id:gari2:20210110115232j:plain

おびただしい数の奉納剣。以前は手前の上瀬縫の集落の高久家が管理していたが、現在は集落で管理をされているとのこと。

こちらは那須町那須美さんのブログの記事。
那須りんどう茶屋 まいらんせ!奥那須へ 「大欲・・?」

rindoutyaya.at.webry.info

那須美さんは2012年の年末に瀬縫のお不動さまを訪れている。瀬縫を訪れた当時、高久家が管理しておりそちらのおばあさんからまだ奉納剣が買えたという。今回そのお宅を訪ねたが、代が替わり新しい建物に建て替えられ、昔を知ることの出来るものは何もないとのことだった。


f:id:gari2:20210110115259j:plain

こちらが件のお不動様である。風雨にさらされ、陰影が消失しつつある。はたしていつ頃建立されたものだろうか。那須町史によると、大永年間(1511-1528)から続く雨乞い行事が今に至るまで続けられているとある。瀬縫不動尊は別名雨乞い不動と呼ばれている。

f:id:gari2:20210110115015j:plain

f:id:gari2:20210126153052j:plain

石仏のそばには崖から滲みだして流れる清水があり、その流れはお不動さまの鎮座する場所の向かいの池に注いでいる。ここから芦野の方に水脈が伸びていて、 日照りが続くと、近在近郷から「水もらい」に組内・坪内または講中でお参りに来たという。その帰りにはきっと雨が降った。

f:id:gari2:20210110120618j:plain

那須町史の解説でも水不動としての霊験、雨乞いの神さまだということが大きく扱われているが、雨乞いのご利益だけでは遠くから電車に乗って詣でたりしないだろう。奉納剣の願い事をみてみると、受験や商売繁盛などの祈願も目立つ。不動明王は、三鈷剣により魔を退散させ、煩悩や因縁を断ち切り、羂索で悪を縛り上げ改心させ、煩悩から抜け出せない人を救い上げ、迦楼羅焔で魔を焼き払い、煩悩を焼き尽くす。悩み事、願い事を叶えると信じられていたお不動様。

変わった例だと、戦時中、鍋掛の方で2月8日の針供養の際に大きな針刺しを作って瀬縫のお不動様に持って行ったというのがあった。瀬縫の地名も関係するのだろうか。

那須塩原市介護サービス機関紙「あやとり」第25号 2007.03

http://www.city.nasushiobara.lg.jp/14/documents/ayatori21~30.pdf


黒磯市誌によると、かつては、瀬縫不動尊に参る者は必ず大田原不動尊に、大田原不動尊に参る者はまた瀬縫不動尊に参る慣習があり、特に旧正月と旧七月は参詣者が多く、この日は列車を増発するほど盛況だったとある。ここでいう大田原不動尊とはどこのことなのか。ネームバリューでいえば成田山新勝寺の分院、成田山遍照院である。ご住職がなにかご存じないかと成田山遍照院さんにもお話を伺いに行ったが、成田山遍照院が大田原不動尊と呼ばれていたかどうかははわからない、龍泉寺のお不動様も龍頭不動尊として有名だから龍泉寺にも聞いてみてほしい、とのことだった。かたや戦国時代創建の霊験あらたかな 瀬縫不動尊、そして明治17年開創の 新名所?成田山遍照院のお不動さまをあわせてお参りするスタイルが鉄道ツーリズムの流行を背景に流行った、ということなのか。 参詣のために電車が増便されるくらいだから、何らかの資料や文献がありそうなものだ。

 

f:id:gari2:20210110120332j:plain
敷地内に建立されている立派な倶利伽羅剣を模したいくつかの奉納碑は東京の個人や企業の信奉者が建立した昭和50年代のもので、信仰が昭和初期で途切れてしまったわけではないことがわかる。

先ほども触れたように、10年ほど前までは奉納剣も買え、毎月28日の縁日の日には訪れる人もいたようだが、現在どうなのか?すぐ隣のお宅の方の話だと、今でも時おり訪れる方がいることは間違いないとのこと。


瀬縫のお不動さまの手前に廃屋となったお堂が存在する。入口近くにある石碑に「不動尊信者一同」とあることから、瀬縫の不動尊関連の施設だと勘違いされている方もおられるが、こちらは富士・御嶽信仰系の新宗教神道実行教のお堂だった。

f:id:gari2:20210110112235j:plain
皇紀二千六百年の灯籠や記念碑もあり、近所の方に関係をたずねると、瀬縫のお不動様とその施設は関係ない、と教えてくれた。

f:id:gari2:20210110112254j:plain

f:id:gari2:20210110112330j:plain
[表] 東宮妃殿下安産祈願祭神奉齋所
[右] 祈願者 権少教正 黒崎忠平     神力神子 西村峰子
[左] 大正十四年十二月ニ十七日 東宮大夫書状下附
             侍従 落合義誠 書
[裏] 栃木県那須郡 神道実行教会所

           主管者 少講義 西村定

 昭和四十八年一月ニ十八日 外不動尊信者一同 建立
那須町の記念碑にて確認)


瀬縫のお不動さまについて、新たに分かったことがあれば更新したい。


栃木県北 花市・初市2021日程

令和3年の県北の花市・初市は新型コロナウイルス感染症の影響により ほぼ中止となる。黒田原花市に関しては公式情報は見当たらなかったので、那須町商工会に問い合わせを。

 



栃木県北 花市・初市2021日程

 「さくら市氏家暮市」中止

さくら市氏家花市」 中止
 毎年7日に開催

花市の開催中止について – 栃木県さくら市観光ナビ


「花市(西那須野地区)」  中止
毎年11日に開催
西那須野商工会

にしなすの花市 中止のお知らせ

 

「花市(大田原地区)」 中止
毎年1月12日開催 

広報おおたわら(令和3年1月号) | 大田原市


「初市(東那須野地区)」  不明
毎年10日あたりに開催
公式情報見当たらず 


「花市(矢板市)」 不明
毎年13日に開催
公式情報見当たらず

「花市(佐久山地区)」 1/11(火) 10:00-17:00 (時間短縮の可能性)
佐久山地区公民館駐車場 (通常毎年14日に開催 )

福引で新春の運試し 感染防止し佐久山花市 大田原|地域の話題,県内主要|下野

新聞「SOON」ニュース|新型肺炎-COVID19-|下野新聞 SOON(スーン)

大田原、黒羽地区の中止についての記述あり

「黒田原花市」  1/16(土)10:00-18:00 (時間短縮の可能性)
毎年第三土曜日に開催
公式情報見当たらず

栃木県内催事情報(提供:県観光物産協会) | 連合栃木



「黒磯初市(花市)」 中止
毎年第四土曜日に開催
那須塩原市商工会
黒磯初市 開催中止のお知らせ


「黒羽大花市(黒羽地区)」 中止
毎年第四日曜日に開催

広報おおたわら(令和3年1月号) | 大田原市



烏山の映画館 烏山アサヒ座と烏山平和館、烏山映画劇場

f:id:gari2:20180823144958j:plain
栃木県大日本職業別明細図 T14(1925)

f:id:gari2:20180823150655j:plain

栃木県大日本職業別明細図 S12(1937)

昭和30年代、烏山地区にあった映画館は、鍛冶町のアサヒ座と、金井町の平和館、泉町の烏山映画劇場の3館だ。

烏山アサヒ座
烏山町102 現住所:那須烏山市中央2丁目3-15 
木造一階-二階建て 230-300席
創業1953年6月 資料では1953年から1964年までの営業を確認 閉館年は不明

「映画年鑑1953 全国映画館総覧」によると経営者・興行主は長谷川興業、翌1954、55年には烏山興業企業組合に変更になっている。S28(1953)「烏山案内」にはアサヒ座と平和館の2館の映画館の広告が隣り合わせに掲載されている。1956年より川田関氏が経営者・興行主になるが、1960年の「全国映画館名簿(S35)」には烏山興行(業の誤字か)社、同年「全国映画館録1960」では川田関氏とある。1962年は経営者・興行主は烏山興業企業組合、支配人は川田関氏となっているので、川田関氏は烏山興業企業組合の人物なのだろう。

f:id:gari2:20200727213459j:plain「烏山案内」烏山観光協会烏山町商工会 S28(1953) 広告より
旧地名の鍛冶町とある。現在でも地区の通称として使われている。

f:id:gari2:20180723135356j:plain
現在の烏山アサヒ座跡地

f:id:gari2:20201216182906j:plain

烏山町住居表示新旧対照案内図S41(1966)に店舗名書込み


八雲八幡通り 佐野医院、よろづやの向かい、慈眼寺の裏手にアサヒ座はあった。現在は烏山保育園の駐車場になっている。住居表示新旧対照図によると昭和41年時点で烏山102の地番が振られた建物は3つあるが、映画館だった建物はマークした八雲八幡通りから奥まった場所にあった。
隣接する烏山保育園は、大正時代に創立し栃木県内2番目に歴史のある保育園とのこと。慈眼寺の東側にある建物がそうだ。また、八雲八幡通りから松月庵脇に抜ける路地には大正初期、「橘演芸場」という小屋があったという。S12(1937)の栃木県大日本職業別明細図には「新盛館」の屋号がみられる。これがその後の橘演芸場だろうか。



 

烏山平和館
烏山町451 現住所:那須烏山市金井1丁目10-6
木造二階建て 350-400席
創業1953年6月 資料では1952年から1974年までの営業を確認 閉館:1976(S51)「写真で見る烏山町明治大正昭和」キャプションからの情報

f:id:gari2:20200727213629j:plain
「烏山案内」烏山観光協会烏山町商工会 S28(1953) 広告より

f:id:gari2:20180723140246j:plain

現在の烏山平和館跡地 ホームセンターサンハウス(旧ライオンドー居抜)があった 

f:id:gari2:20201209223558j:plain

烏山町住居表示新旧対照案内図 S41(1966)より

この案内図には烏山平和館の建物に「パレス」とある。手持ちの「全国映画館録/映画館便覧」資料では1965-1969年が確認出来ていないので、名称変更があったかどうかは不明である。

 

f:id:gari2:20201206204435j:plain

「写真で見る烏山町明治大正昭和」(S61)より

S28(1953)発行の「烏山案内」広告には殖産興業K・Kの名前がみられるが、前年の「全日本映画館録1952-5」では経営者・興行主は菊地正夫氏となっている。翌年の「映画年鑑1953 全国映画館総覧」では殖産興業の名があり、翌1954、55年版では烏山興業企業組合の名義となっている。1956年から再び菊地正夫氏となり、烏山興業企業組合と何度か表記が変わる。1954、55、61、62年は経営者・興行主が烏山興業企業組合、支配人が菊地正夫氏なので、菊地正夫氏は烏山興業企業組合の人物なのだろう。烏山興業企業組合の名称は鍛治町の烏山アサヒ座の経営者・興行主名でも見受けられる。平和館、アサヒ座は同じ経営母体で運営されていたのではないか。しかし殖産興業と烏山興業企業組合の関係は不明である。1970年より興行主・支配人は笠井登美子氏に変更される。



烏山映画劇場
烏山町223 現住所:那須烏山市中央2丁目15-4
木造一-二階建て 230-800席
創業不明 資料では1952年から1960年までの営業を確認 閉館不明であるが
建物自体はT09(1920)落成とある 映画常設館になる以前から劇場として存在した

「全日本映画館録1952-5」では経営者・興行主は長谷川興業となっている。これは1953年6月創業のアサヒ座と同じ興行主であり、電話番号も同じ烏山270になっている。支配人も1956年からアサヒ座の支配人となる栗原統雄氏。これはアサヒ座の準備期間として居抜きで烏山劇場の建物を利用して興行していたのではないか。
記録は飛んで1957年から興行主は森清氏、支配人は古谷一郎氏で営業が確認できる。しかし1960年を最後に映画館名簿の掲載はなくなってしまう。

 

f:id:gari2:20201218142850j:plain

山あげ通り沿い。現在は民家と空地になっている。

f:id:gari2:20201209233852j:plain

烏山町住居表示新旧対照案内図 S41(1966)より

地番としてはこの付近であるが、昭和41年の地図で建物がそっくり残っていないのもおかしい。下の烏山倶楽部時代の写真の左隣の建物の廂の感じが15-16のお宅の感じにそっくりなのでこちらに推定した。付近の商店の方に伺ったところ、こちらで間違いないとのこと。

f:id:gari2:20201209224514j:plain
「写真で見る烏山町明治大正昭和」(S61)より
キャプションには 烏山劇場(泉町に庶民の娯楽の殿堂として大正9年落成)とある。写真を見ると「烏山倶楽部」と当時の名称がみえる。昭和30年代の烏山映画劇場もこの建物のまま営業していたとのこと。

 

f:id:gari2:20201218142807j:plain

跡地を「写真で見る烏山町明治大正昭和」掲載の写真と同じ角度で写したもの。隣の建物は元商店のようだが、玄関のひさしが唐破風であったり、通りに面した意匠が凝っていてなかなか興味深い。

f:id:gari2:20201216181839j:plain

栃木県大日本職業別明細図 S12(1937) 部分

実は以前の聞き込みでは、久保田屋旅館の隣の、那須南病院職員駐車場として使われている場所が烏山映画劇場であるという情報もあった。これは住居表示新旧対照図により否定されるものであるが、「栃木県大日本職業別明細図」S12(1937)をみると確かに久保田屋旅館の隣に「烏山劇場」がある。唐破風の玄関、もしや隣の敷地に現存する建物は元久保田屋旅館、なんてことは??

 

 

garitune.hatenablog.jp

 

garitune.hatenablog.jp

 



遊園橋工事完了

f:id:gari2:20200928115240j:plain

補修工事を終えた遊園橋。アーチリブや高欄もそのままにヒビや破損した箇所の補修にとどめた改修だったようだ。改めて調べてみると入札の資料に「令和元年度防災安全交付⾦事業 市道袖ヶ沢線遊園橋橋梁修繕工事」とあった。

f:id:gari2:20200928115605j:plain

そもそも袖ヶ沢温泉万人風呂に向かうための専用道路であった遊園橋である。専用道路は青葉通りで分断され、須巻富士や川崎大師不動尊に向かう人もこの橋は通ることはないだろう。あくまで生活道路としての市道袖ヶ沢線存続を目的とした改修であったと思われる。

f:id:gari2:20200928115614j:plain

破損していた橋柱もきれいに再現。

f:id:gari2:20200928115549j:plain

取付道路との継ぎ目に伸縮装置がついた。夜間に侵入する際の橋幅が分かりやすい反射板を装着。

f:id:gari2:20200928115711j:plain
高欄土台のコンクリートの削れも補修。

f:id:gari2:20200928115655j:plain
高欄の傷みもこの通り。

f:id:gari2:20200928115639j:plain
排水溝も新しくなり水はけも良くなった。

f:id:gari2:20200928115408j:plain

f:id:gari2:20200928115854j:plain

右岸から。橋柱の根元に補強用のコンクリートが作られてしまった。もともとアスファルトが厚く敷かれ銘板の下の方は隠れていたのだが。

f:id:gari2:20200928115751j:plain
完工年は・・

f:id:gari2:20200928115742j:plain
ゆ・・

f:id:gari2:20080910125609j:plainかつての遊園橋の様子。2008年撮影

f:id:gari2:20200928120939j:plain

左岸側の橋台

f:id:gari2:20200928121021j:plain

f:id:gari2:20200928120923j:plain

f:id:gari2:20200928121022j:plain

f:id:gari2:20200928120904j:plain

雰囲気のある遊園橋の外観はそのままだ。また来るね。

 

garitune.hatenablog.jp

garitune.hatenablog.jp

garitune.hatenablog.jp

garitune.hatenablog.jp

 

小川グランドボウル看板解体

f:id:gari2:20200825090350j:plain

ドライブ途中、小川グランドボウルのロードサイド看板のボーリングピンが取り外されるタイミングに出くわした。

f:id:gari2:20200825090507j:plain

f:id:gari2:20200825090609j:plain
小川グランドボウル 栃木県那須郡那珂川町小川782 昭和47年(1972)年5月オープン 長らく市民に愛されてきた娯楽の殿堂小川グランドボウルは、平成23年(2011)の東日本大震災の影響で閉鎖されていた。

f:id:gari2:20200825090623j:plain

f:id:gari2:20200825090643j:plain

f:id:gari2:20200825091330j:plain

f:id:gari2:20200825091731j:plain

f:id:gari2:20200825092103j:plain

f:id:gari2:20200825092138j:plain

f:id:gari2:20200825092242j:plain

f:id:gari2:20200825092247j:plain

f:id:gari2:20200825092300j:plain

f:id:gari2:20200825092314j:plain

f:id:gari2:20200825092333j:plain

f:id:gari2:20200825092501j:plain

f:id:gari2:20200825092519j:plain

f:id:gari2:20200825092555j:plain




f:id:gari2:20200903094735j:plain

 
栃木県北のボウリング場

黒磯ボウル 那須塩原市若葉町66-75 30レーン
開業:1972(S47)年7月28日

王冠ボウル 大田原市美原1-6-18 32レーン(旧東野ボウル1972年開業)
開業:1981(S56)年4月22日

ホテルニュー塩原ボウリング場 那須塩原市塩原705番地ホテル 10レーン
開店時期不明

  

 

今市トーヨーボウル 日光市今市408 20レーン
開業:1986(S61)年03月13日  閉業:2010(H22)年08月31日

小川グランドボウル 那須郡那珂川町小川782 24レーン
開業:1972(S47)年5月 閉業:2011(H23)年4月30日

サウンドボウル黒磯店 那須塩原市下厚崎365 26レーン
開業:1991(H3)年12月14日 閉業:2012(H24)年1月15日

氏家スカイボウル さくら市馬場41-1 30レーン
開業:1981(S56)年7月10日 閉業:2019(R1)年11月4日

大田原チサンボウル 
開業:1968(S43)年12月 閉業時期不明

西那須地産ボウル 
開業:1972(S47)年1月 閉業時期不明

日光ボウル
開業:1971(S46)年8月 閉業時期不明

 

「俺の人生三百年」と高栄館@高林、そしてドンドンサについて


先日SNSで1990年代にラジオCMが流れていた「那須モンテパルコ」について調べていて、現在のこの施設は東北サファリパークが経営しているということで、なにか情報はないかと東北サファリパークの創業者熊久保勅夫さんが1993年に出版した半生記「俺の人生三百年」を読んでみたのだが、これがまた波乱に満ちた人生でとてもおもしろかった。

 

熊久保勅夫さんは1923年(S6)生まれ、高林の酒造業、熊久保商店の次男として生まれた。熊久保家の酒造はもともと木綿畑新田にあったのだが、昭和に入り現在地の高林に移動したという。商号はコル一といい「東郷」という酒銘で古くから日本酒を製造販売していたが、戦後はGHQから東郷元帥にと同じ名前で軍国主義につながると「平和 壽」と改名させられた。

 

f:id:gari2:20200606001214j:plain

岩本酒店のロードサイド看板に平和壽

garitune.hatenablog.jp

 

「俺の人生三百年」に書かれている熊久保勅夫さんの生い立ちによると、生家の熊久保家は酒造業のほかに木材業、製炭業、旅館業などを経営していたようだ。また、熊久保家はS30年代に高林で映画館も経営していた。娯楽の少なかった時代、空前の映画ブームで興行場営業はピークの時期であちこちに映画館が作られた。

f:id:gari2:20170320135036j:plain

高栄館跡地 奥の建物付近にあったという

テレビが普及する以前、ある程度の規模の集落には映画館があって、高林地区にも高栄館という映画館が存在した。「全国映画館名鑑」をみてみると高栄館はS32~35年に確認できる。 配給は大映、松竹系で木造2階建て、定員は350とある。


当時の様子を知る方によると、 2階席や2階桟敷は存在せず映写室だけが2階にあったとのこと。 S40年代にはすでに定期的な上映は行われておらず、夏休みに怪談ものの上映会を行ったり、小学校の授業で高栄館へ教育映画を観に行ったりするくらいだったという。また有名になる前の村田英雄の生公演を高栄館で観たという方もおられた。映画館の思い出を伺うと必ず旅芝居の一座の話や今では有名な芸能人がこの劇場に来たんだ、という話をよく聞く。演芸場や劇場、ヘルスセンター、クラブやキャバレーなどをめぐる地方巡業時代の苦労話はおかしくも切なくギラギラとした野心に満ちている。

 

1969年(S44)頃、夕方に高栄館で地元のバンドの演奏会があり、何度か観に行ったとのこと。高林地区は不動産ブームで山林の土地が売れて景気が良く、自家用車に乗りバンド活動に参加する若者が多くいたそうだ。 当時のエレキブームの様子を伝える貴重な証言だ。当時の新聞の映画案内を観ていて「スパイダースの青春ア・ゴーゴー」がこの街でも上映されたんだなあ、という事実はわかるが、GSブーム、エレキブームが実際に若者たちにどんな影響を与えたかの実例を聞くとさらに感慨深いものがある。高栄館の建物はS40年代後半に取り壊されて当時の様子を伝えるものは何もない。

garitune.hatenablog.jp

 

garitune.hatenablog.jp

 
「俺の人生三百年」はサファリパーク、サーキット場経営、不動産で成功をおさめ、公営競馬賞金王でもある熊久保勅夫さんの波乱万丈の半生の記録である。何度もどん底まで堕ちて這い上がったサクセスストーリーだ。1993年発行の本なので、それ以降の経営展開についての話を是非聞いてみたい。これだけの成功を収めながら貪欲に秘宝館の運営までやっているんだもんな。地元の観光産業、レジャー産業の移り変わりについてもお話を伺いたいものだ。

 結局この本には当初の目的であった「那須モンテパルコ」についての情報も「高林高栄館」の詳細も触れられていなかったのだが、個人的に重要な情報がひとつあった。休園間もない頃の黒磯の遊園地「ドンドンサ」が登場するので、その部分について触れておきたい。

1969年(S44)の2月、福島県磐梯熱海温泉で「磐光パラダイス火災」という事件があった。磐光パラダイスとはキャバレー・温水プール・映画館・こどもの楽園などがある福島県下一の大型総合レジャー施設で、1968年(S43)5月にオープン、前述の大火災で消失して閉館した。ヌードショー、金粉ショー、アイヌショーなど(そういう時代だった)ユニークな舞台でマスコミを賑わせた。

「俺の人生三百年」に、この火事で被災した磐光パラダイスの鳥類園の鳥たちを保護して、黒磯ドンドンサでかわりに飼育する話が出てくる。当時不動産業をしていた熊久保さんが、のちに動物を売りにした観光事業を始めるヒントとなる重要な場面だ。なぜ磐光パラダイスの鳥たちを預かることになったのかについては触れられていない。熊久保さんとドンドンサの関係についても是非知りたいものだ。

その後すぐドンドンサも倒産、ドンドンサの飼育員たちは、近所の料理屋から残飯をもらって食べさせていたが、電気代も払えずポンプは動かず水も止められ、鳥たちは全身糞まみれになっている。熊久保さんはそんな扱いに怒って、鳥たちを買取り飼育費用を工面したのだという。

この本には鳥たちの様子を観に行ったのが1969年(S44)の夏とあるのだが、実際のドンドンサのオープンは1970年(S45)4月11日のはずだ。記憶違いだろうか。ドンドンサの正式な営業期間はかなり短かったと聞く。オープンを知らせる1面広告に書かれている「洋鳥・野鳥の大世界」は磐光パラダイスの鳥類園から来た鳥たちだったのだろうか?

garitune.hatenablog.jp

 

鳥たちのなかに物真似のうまいカラスがいて「バンコー!カジダー!」と鳴くのだという。磐光パラダイスの火事の晩に「磐光が火事だあー!!」という皆の叫び声を聞いて覚えてしまったというのだが・・。その後岳温泉の鏡沼に「岳温泉バードランド」という施設を作り鳥たちを移設したのだそうだ。