がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

烏山の映画館 烏山アサヒ座と烏山平和館、烏山映画劇場

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栃木県大日本職業別明細図 T14(1925)

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栃木県大日本職業別明細図 S12(1937)

昭和30年代、烏山地区にあった映画館は、鍛冶町のアサヒ座と、金井町の平和館、泉町の烏山映画劇場の3館だ。

烏山アサヒ座
烏山町102 現住所:那須烏山市中央2丁目3-15 
木造一階-二階建て 230-300席
創業1953年6月 資料では1953年から1964年までの営業を確認 閉館年は不明

「映画年鑑1953 全国映画館総覧」によると経営者・興行主は長谷川興業、翌1954、55年には烏山興業企業組合に変更になっている。S28(1953)「烏山案内」にはアサヒ座と平和館の2館の映画館の広告が隣り合わせに掲載されている。1956年より川田関氏が経営者・興行主になるが、1960年の「全国映画館名簿(S35)」には烏山興行(業の誤字か)社、同年「全国映画館録1960」では川田関氏とある。1962年は経営者・興行主は烏山興業企業組合、支配人は川田関氏となっているので、川田関氏は烏山興業企業組合の人物なのだろう。

f:id:gari2:20200727213459j:plain「烏山案内」烏山観光協会烏山町商工会 S28(1953) 広告より
旧地名の鍛冶町とある。現在でも地区の通称として使われている。

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現在の烏山アサヒ座跡地

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烏山町住居表示新旧対照案内図S41(1966)に店舗名書込み


八雲八幡通り 佐野医院、よろづやの向かい、慈眼寺の裏手にアサヒ座はあった。現在は烏山保育園の駐車場になっている。住居表示新旧対照図によると昭和41年時点で烏山102の地番が振られた建物は3つあるが、映画館だった建物はマークした八雲八幡通りから奥まった場所にあった。
隣接する烏山保育園は、大正時代に創立し栃木県内2番目に歴史のある保育園とのこと。慈眼寺の東側にある建物がそうだ。また、八雲八幡通りから松月庵脇に抜ける路地には大正初期、「橘演芸場」という小屋があったという。S12(1937)の栃木県大日本職業別明細図には「新盛館」の屋号がみられる。これがその後の橘演芸場だろうか。



 

烏山平和館
烏山町451 現住所:那須烏山市金井1丁目10-6
木造二階建て 350-400席
創業1953年6月 資料では1952年から1974年までの営業を確認 閉館:1976(S51)「写真で見る烏山町明治大正昭和」キャプションからの情報

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「烏山案内」烏山観光協会烏山町商工会 S28(1953) 広告より

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現在の烏山平和館跡地 ホームセンターサンハウス(旧ライオンドー居抜)があった 

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烏山町住居表示新旧対照案内図 S41(1966)より

この案内図には烏山平和館の建物に「パレス」とある。手持ちの「全国映画館録/映画館便覧」資料では1965-1969年が確認出来ていないので、名称変更があったかどうかは不明である。

 

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「写真で見る烏山町明治大正昭和」(S61)より

S28(1953)発行の「烏山案内」広告には殖産興業K・Kの名前がみられるが、前年の「全日本映画館録1952-5」では経営者・興行主は菊地正夫氏となっている。翌年の「映画年鑑1953 全国映画館総覧」では殖産興業の名があり、翌1954、55年版では烏山興業企業組合の名義となっている。1956年から再び菊地正夫氏となり、烏山興業企業組合と何度か表記が変わる。1954、55、61、62年は経営者・興行主が烏山興業企業組合、支配人が菊地正夫氏なので、菊地正夫氏は烏山興業企業組合の人物なのだろう。烏山興業企業組合の名称は鍛治町の烏山アサヒ座の経営者・興行主名でも見受けられる。平和館、アサヒ座は同じ経営母体で運営されていたのではないか。しかし殖産興業と烏山興業企業組合の関係は不明である。1970年より興行主・支配人は笠井登美子氏に変更される。



烏山映画劇場
烏山町223 現住所:那須烏山市中央2丁目15-4
木造一-二階建て 230-800席
創業不明 資料では1952年から1960年までの営業を確認 閉館不明であるが
建物自体はT09(1920)落成とある 映画常設館になる以前から劇場として存在した

「全日本映画館録1952-5」では経営者・興行主は長谷川興業となっている。これは1953年6月創業のアサヒ座と同じ興行主であり、電話番号も同じ烏山270になっている。支配人も1956年からアサヒ座の支配人となる栗原統雄氏。これはアサヒ座の準備期間として居抜きで烏山劇場の建物を利用して興行していたのではないか。
記録は飛んで1957年から興行主は森清氏、支配人は古谷一郎氏で営業が確認できる。しかし1960年を最後に映画館名簿の掲載はなくなってしまう。

 

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山あげ通り沿い。現在は民家と空地になっている。

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烏山町住居表示新旧対照案内図 S41(1966)より

地番としてはこの付近であるが、昭和41年の地図で建物がそっくり残っていないのもおかしい。下の烏山倶楽部時代の写真の左隣の建物の廂の感じが15-16のお宅の感じにそっくりなのでこちらに推定した。付近の商店の方に伺ったところ、こちらで間違いないとのこと。

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「写真で見る烏山町明治大正昭和」(S61)より
キャプションには 烏山劇場(泉町に庶民の娯楽の殿堂として大正9年落成)とある。写真を見ると「烏山倶楽部」と当時の名称がみえる。昭和30年代の烏山映画劇場もこの建物のまま営業していたとのこと。

 

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跡地を「写真で見る烏山町明治大正昭和」掲載の写真と同じ角度で写したもの。隣の建物は元商店のようだが、玄関のひさしが唐破風であったり、通りに面した意匠が凝っていてなかなか興味深い。

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栃木県大日本職業別明細図 S12(1937) 部分

実は以前の聞き込みでは、久保田屋旅館の隣の、那須南病院職員駐車場として使われている場所が烏山映画劇場であるという情報もあった。これは住居表示新旧対照図により否定されるものであるが、「栃木県大日本職業別明細図」S12(1937)をみると確かに久保田屋旅館の隣に「烏山劇場」がある。唐破風の玄関、もしや隣の敷地に現存する建物は元久保田屋旅館、なんてことは??

 

 

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遊園橋工事完了

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補修工事を終えた遊園橋。アーチリブや高欄もそのままにヒビや破損した箇所の補修にとどめた改修だったようだ。改めて調べてみると入札の資料に「令和元年度防災安全交付⾦事業 市道袖ヶ沢線遊園橋橋梁修繕工事」とあった。

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そもそも袖ヶ沢温泉万人風呂に向かうための専用道路であった遊園橋である。専用道路は青葉通りで分断され、須巻富士や川崎大師不動尊に向かう人もこの橋は通ることはないだろう。あくまで生活道路としての市道袖ヶ沢線存続を目的とした改修であったと思われる。

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破損していた橋柱もきれいに再現。

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取付道路との継ぎ目に伸縮装置がついた。夜間に侵入する際の橋幅が分かりやすい反射板を装着。

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高欄土台のコンクリートの削れも補修。

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高欄の傷みもこの通り。

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排水溝も新しくなり水はけも良くなった。

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右岸から。橋柱の根元に補強用のコンクリートが作られてしまった。もともとアスファルトが厚く敷かれ銘板の下の方は隠れていたのだが。

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完工年は・・

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ゆ・・

f:id:gari2:20080910125609j:plainかつての遊園橋の様子。2008年撮影

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左岸側の橋台

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雰囲気のある遊園橋の外観はそのままだ。また来るね。

 

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小川グランドボウル看板解体

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ドライブ途中、小川グランドボウルのロードサイド看板のボーリングピンが取り外されるタイミングに出くわした。

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小川グランドボウル 栃木県那須郡那珂川町小川782 昭和47年(1972)年5月オープン 長らく市民に愛されてきた娯楽の殿堂小川グランドボウルは、平成23年(2011)の東日本大震災の影響で閉鎖されていた。

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栃木県北のボウリング場

黒磯ボウル 那須塩原市若葉町66-75 30レーン
開業:1972(S47)年7月28日

王冠ボウル 大田原市美原1-6-18 32レーン(旧東野ボウル1972年開業)
開業:1981(S56)年4月22日

ホテルニュー塩原ボウリング場 那須塩原市塩原705番地ホテル 10レーン
開店時期不明

  

 

今市トーヨーボウル 日光市今市408 20レーン
開業:1986(S61)年03月13日  閉業:2010(H22)年08月31日

小川グランドボウル 那須郡那珂川町小川782 24レーン
開業:1972(S47)年5月 閉業:2011(H23)年4月30日

サウンドボウル黒磯店 那須塩原市下厚崎365 26レーン
開業:1991(H3)年12月14日 閉業:2012(H24)年1月15日

氏家スカイボウル さくら市馬場41-1 30レーン
開業:1981(S56)年7月10日 閉業:2019(R1)年11月4日

大田原チサンボウル 
開業:1968(S43)年12月 閉業時期不明

西那須地産ボウル 
開業:1972(S47)年1月 閉業時期不明

日光ボウル
開業:1971(S46)年8月 閉業時期不明

 

「俺の人生三百年」と高栄館@高林、そしてドンドンサについて


先日SNSで1990年代にラジオCMが流れていた「那須モンテパルコ」について調べていて、現在のこの施設は東北サファリパークが経営しているということで、なにか情報はないかと東北サファリパークの創業者熊久保勅夫さんが1993年に出版した半生記「俺の人生三百年」を読んでみたのだが、これがまた波乱に満ちた人生でとてもおもしろかった。

 

熊久保勅夫さんは1923年(S6)生まれ、高林の酒造業、熊久保商店の次男として生まれた。熊久保家の酒造はもともと木綿畑新田にあったのだが、昭和に入り現在地の高林に移動したという。商号はコル一といい「東郷」という酒銘で古くから日本酒を製造販売していたが、戦後はGHQから東郷元帥にと同じ名前で軍国主義につながると「平和 壽」と改名させられた。

 

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岩本酒店のロードサイド看板に平和壽

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「俺の人生三百年」に書かれている熊久保勅夫さんの生い立ちによると、生家の熊久保家は酒造業のほかに木材業、製炭業、旅館業などを経営していたようだ。また、熊久保家はS30年代に高林で映画館も経営していた。娯楽の少なかった時代、空前の映画ブームで興行場営業はピークの時期であちこちに映画館が作られた。

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高栄館跡地 奥の建物付近にあったという

テレビが普及する以前、ある程度の規模の集落には映画館があって、高林地区にも高栄館という映画館が存在した。「全国映画館名鑑」をみてみると高栄館はS32~35年に確認できる。 配給は大映、松竹系で木造2階建て、定員は350とある。


当時の様子を知る方によると、 2階席や2階桟敷は存在せず映写室だけが2階にあったとのこと。 S40年代にはすでに定期的な上映は行われておらず、夏休みに怪談ものの上映会を行ったり、小学校の授業で高栄館へ教育映画を観に行ったりするくらいだったという。また有名になる前の村田英雄の生公演を高栄館で観たという方もおられた。映画館の思い出を伺うと必ず旅芝居の一座の話や今では有名な芸能人がこの劇場に来たんだ、という話をよく聞く。演芸場や劇場、ヘルスセンター、クラブやキャバレーなどをめぐる地方巡業時代の苦労話はおかしくも切なくギラギラとした野心に満ちている。

 

1969年(S44)頃、夕方に高栄館で地元のバンドの演奏会があり、何度か観に行ったとのこと。高林地区は不動産ブームで山林の土地が売れて景気が良く、自家用車に乗りバンド活動に参加する若者が多くいたそうだ。 当時のエレキブームの様子を伝える貴重な証言だ。当時の新聞の映画案内を観ていて「スパイダースの青春ア・ゴーゴー」がこの街でも上映されたんだなあ、という事実はわかるが、GSブーム、エレキブームが実際に若者たちにどんな影響を与えたかの実例を聞くとさらに感慨深いものがある。高栄館の建物はS40年代後半に取り壊されて当時の様子を伝えるものは何もない。

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「俺の人生三百年」はサファリパーク、サーキット場経営、不動産で成功をおさめ、公営競馬賞金王でもある熊久保勅夫さんの波乱万丈の半生の記録である。何度もどん底まで堕ちて這い上がったサクセスストーリーだ。1993年発行の本なので、それ以降の経営展開についての話を是非聞いてみたい。これだけの成功を収めながら貪欲に秘宝館の運営までやっているんだもんな。地元の観光産業、レジャー産業の移り変わりについてもお話を伺いたいものだ。

 結局この本には当初の目的であった「那須モンテパルコ」についての情報も「高林高栄館」の詳細も触れられていなかったのだが、個人的に重要な情報がひとつあった。休園間もない頃の黒磯の遊園地「ドンドンサ」が登場するので、その部分について触れておきたい。

1969年(S44)の2月、福島県磐梯熱海温泉で「磐光パラダイス火災」という事件があった。磐光パラダイスとはキャバレー・温水プール・映画館・こどもの楽園などがある福島県下一の大型総合レジャー施設で、1968年(S43)5月にオープン、前述の大火災で消失して閉館した。ヌードショー、金粉ショー、アイヌショーなど(そういう時代だった)ユニークな舞台でマスコミを賑わせた。

「俺の人生三百年」に、この火事で被災した磐光パラダイスの鳥類園の鳥たちを保護して、黒磯ドンドンサでかわりに飼育する話が出てくる。当時不動産業をしていた熊久保さんが、のちに動物を売りにした観光事業を始めるヒントとなる重要な場面だ。なぜ磐光パラダイスの鳥たちを預かることになったのかについては触れられていない。熊久保さんとドンドンサの関係についても是非知りたいものだ。

その後すぐドンドンサも倒産、ドンドンサの飼育員たちは、近所の料理屋から残飯をもらって食べさせていたが、電気代も払えずポンプは動かず水も止められ、鳥たちは全身糞まみれになっている。熊久保さんはそんな扱いに怒って、鳥たちを買取り飼育費用を工面したのだという。

この本には鳥たちの様子を観に行ったのが1969年(S44)の夏とあるのだが、実際のドンドンサのオープンは1970年(S45)4月11日のはずだ。記憶違いだろうか。ドンドンサの正式な営業期間はかなり短かったと聞く。オープンを知らせる1面広告に書かれている「洋鳥・野鳥の大世界」は磐光パラダイスの鳥類園から来た鳥たちだったのだろうか?

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鳥たちのなかに物真似のうまいカラスがいて「バンコー!カジダー!」と鳴くのだという。磐光パラダイスの火事の晩に「磐光が火事だあー!!」という皆の叫び声を聞いて覚えてしまったというのだが・・。その後岳温泉の鏡沼に「岳温泉バードランド」という施設を作り鳥たちを移設したのだそうだ。


遊園橋工事中

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青葉通りと県道56号線の交差地点

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青葉通り鹿股橋架替え工事案内板

鹿股橋の架替え工事で青葉通りR400バイパスが通れなくなってしばらく経つ。今年の4月に工事は完了するはずだったが7月に延期している。青葉通りの福渡橋からこの地点までの開通は1988年(S63)のようだが、青葉通りの着工はかなり古く鹿股橋が架けられてから50数年経過しているとのこと(明賀屋社長ブログ情報)。融雪剤で傷みが激しく補修ではすまなかったようだ。

大田原土木事務所
一般国道400号鹿股橋(かのまたばし)架替工事の施工状況について

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遊園橋補修工事中

数少ない当ブログフォロアーの方からの情報、塩原温泉郷塩釜の遊園橋が修繕工事中とのこと。さっそく観に行ってきた。

 

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遊園橋工事中

遊園橋とは・・畑下戸温泉の対岸、袖ヶ沢温泉にあった「萬人風呂霞上館」へ向かう専用道路の入口、箒川に架けられた専用橋のことである。

塩原温泉案内(1922)での袖の沢温泉の説明では
大正八年からの着手だが漸く完全の域に近づきて鹽原第一の名所に数えられる様になつた、鹽釜と畑下戸の中間より新道を開鑿して自動車の往復に差支へ無い。
とあり専用道路は完成しているように思われるが、大正16年6月18日発行(大正は15年までなのだが)のリーフレット「塩原袖ヶ澤温泉案内」(1926)においては、
目下専用道路開通を急ぎつつあり。近く諸車交通自在なり。
とあり、昭和元年時点では自動車の通れる専用道路は全線開通していないようだ。もともとの遊園橋の正式な開通は昭和に入ってから、ということになる。リーフレットにある「新塩原袖ヶ澤温泉入口」はこの塩釜地内のことなのか、もう一方のトテ馬車基地のある須巻温泉入口なのか?

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 このコンクリートの遊園橋は、昭和32年(1957)に架けられた橋で既に63年が経過している。今回の工事は橋梁の寿命を延ばすための補強工事とのことで手すり等は特に新しくなったりはしないと思われる。
川岸に降りてみる。

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遊園橋20200519

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遊園橋20200519-2


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2008年撮影

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2008年撮影

よくわからんけどRCオープンスパンドレル(開腹式)上路アーチ橋、という分類になるのだろうか。清楚で美しい!!今回の長寿命化工事で充腹式になるのか、鉄骨アーチで添え木をするのか不明だが、いつまでも残ってほしい思い入れのある橋です。

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今回の情報によると、橋台部分に旧橋から新橋への移行した際の痕跡があるらしいのだが、足場に覆われていて確認することが出来なかった。工事完了後でも確認出来るものなのだろうか?2008年は河川敷に降りての撮影だったんで一段高いたもとの橋台部分はじっくり観察しなかったんだな。

八幡崎ツツジ群落@那須高原

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那須高原八幡崎のツツジ

一日中ぐずついた天気だったが、八幡崎(やはたざき)のツツジが咲き始めたとの話で観に行った。平日の3時過ぎということもあり、なす高原自然の家駐車場には一台も車が止まっていなかった。栃木県は新型コロナウイルスによる外出自粛が解除になったものの、まだまだ感染に不安が残る。

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八幡ツツジ 中央展望台から茶臼岳方面

小雨がちらつく中、せっかく来たので中央展望台まで行ってみる。木道前回来た時から新しくなってる?展望台に上がるも那須山塊は見えず。もっと晴れてて満開に近ければ混雑しちゃうしねえ。むずかしいところだ。

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宇都宮市内の銭湯

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宇都宮市内銭湯ガイド タウン誌うつのみや 1973初夏号より

たまに大きい湯船のお風呂に入りたくなる。家の内風呂では得られぬ爽快感、芸術的な壁画、カコーンと響くお風呂エコー、裸同士の解放感から気さくに話しかけてくるおっちゃんたち。最近ではスーパー銭湯とか日帰り湯が主流だが、今回は公衆浴場でも「銭湯」についての話だ。かつて人口密集地には必ず銭湯がいくつもあった。アパートにも内風呂がなく皆銭湯に通っていた時代、昭和40年頃には全国に銭湯が2万2000軒もあったという。


宇都宮市内にかつてあった銭湯

1970年(S45年)の商工名鑑より、39軒。末尾の年代は1970年商工名鑑掲載の創業年。


アルプス温泉 西大寛1-2-3
あづま湯㈲ 末広2-1-10 S40
朝日の湯 西原1-1-5 
㈲東湯 伝馬町2-19
東湯 大寛2-1-4 S21
銀杏の湯 旭町2-3435 S26
㈲泉の湯 今泉町1045 S34
稲荷湯 清住3-8-15
宇都宮温泉 大曽243 S42
歌の湯 一条4-5-37(旧歌ノ橋町)
江曾島浴場 八千代1-14-13 S30
栄美寿湯 南高砂町11-1 S41
亀の湯 旭町2-3458
越の湯 清住2-2-11
さざなみ湯 材木町3-8
桜の湯㈲ 戸祭1-2-15 S32
祥の湯 川向町739 S25
孝の湯 今泉町2600-5 S31
宝の湯 川向町817 S21
㈲武の湯 旭町1-3134 S27
㈲中央湯 伝馬町4-20 S23
つるの湯 簗瀬町285 S34
友の湯 富士見町1-15 S31
那須温泉 桜1-5-11 S30
那須温泉 今小路71 
南天ノ湯 吉野町2-3-9 S35 
人参湯 塙田町21
沼尻温泉 桜3-2-12
ひさご湯 江曽島町861 S30
姫の湯 宮本町19-12 S20 
不動の湯 西原町271 S41
福の湯 昭和2-4-22
藤の湯 東峰町3038 S39
平和(ピンフ)湯 旭町1-3508 S31
㈲宝泉湯 本町6-4
保の湯 桜1-6-12 S32
㈱宮の湯 上河原町532 S25
めいの湯 大寛2-9-5
サウナバス 千手町177 S42

ヘルスセンター
ヘルスセンターは現在のスーパー銭湯のはしりのような施設。大広間の休憩室、飲食スペースを備え、歌謡ショーや旅芝居を観劇出来る。

東光ヘルスセンター 平松本町363 S38
㈱大谷観音ヘルスセンター S33 大谷町1224
㈱かまぶろ温泉(ヘルスセンター) 野沢町547 S42

特殊浴場
リストに特殊浴場も含まれていたので掲載する。当初のトルコ風呂は健全なサウナなのだが、いつしかスペシャルサービスのある風俗営業のほうを差すようになっていく。

㈲雀宮トルコセンター 雀宮5-2-41 S40
トルコミス東京 松峰町1149 S34
トルコユニバース 旭町2-3419 S39

以下は1953年のリストにはあるが1970年のリストにない銭湯。1970年には役割を終え閉店してしまったお店だ。住所は1964年の住居表示実施以前のもの。

浅蜊(あさり)の湯 塙田町281
梅の湯 塙田町298
金の湯 大曾町243
鈴の湯 宮本町
宝の湯 泉町
宝の湯 宝木町
狸の湯 二条町1248
玉の湯 花園町1-17
西の湯 西大寛町2714
富久の湯 戸祭町
不動の湯 西原不動前278
富士の湯 宮本町
別府の湯 寿町2869
宮の湯 上河原町532
紅葉の湯 二条町1240



ちょうどこの頃の宮市内の公衆浴場の料金値上げについての記事があったので紹介する。

安いふろ屋に人気 六年間も据え置き 五円値上げ見送り組も
1970年(S45)4月5日 下野新聞

宇都宮市内の公衆浴場は、今月1日からおとなの入浴料金を30円から35円に値上げした。ところが市内のふろ屋さんの中には別に値上げをせず従来どおりおとな30円で営業しているところもあり、中には、27円という低額料金のふろ屋さんもある。わずか40軒足らずの市内の公衆浴場でおとなの入浴料金だけが35円、30円、27円の三本立てになったわけだ。「ふろ代は安いほどありがたいが、それにしてもこれはいったいどうなってんの」と首をかしげる市民も多い。
宇都宮市内のふろ屋さんは、現在39軒。この中でまずおとなの入浴料金が一番安い27円で営業しているのが市内西大寛町1丁目の「アルプス湯」。経営者の〇〇〇〇さん(70)は大正14年から同じ場所でふろ屋を行なっている古手の業者だ。〇〇さんの話によるとさる39年、浴場組合がふろ屋で売る牛乳1本につき1円組合に納入させた金の使途をめぐって組合幹部と対立し、組合を脱退した。以来独立独歩。組合脱退後行なわれた27円から30円への値上げのさいも他の業者に同調せず、今春の30円から35円への値上げも全く知らぬ顔。27円のままずっと据え置きだ。
「なあに食うだけなら、値上げをしないでもやって行けるさ」と強気の構えだ。
これほどではなくとも今回の値上げを見送り大人30円で営業しているふろ屋さんも多い。市内桜1丁目の「那須温泉」、今泉町の「泉の湯」、川向町の「宝の湯」旭町の「銀杏湯」などがそれだ。これら料金据え置きのふろ屋さんは、浴場組合に加入していない業者が多いが、それにしても何でも値上がりの昨今。例え5円でも安い方がありがたいという市民が多い。
市内旭町に住む会社員のAさん(20)は「私の行きつけのふろ屋は5円値上げして35円になった。まあ物価高のおり、5円程度の値上げは仕方ないと思っているが、営業時間が午後2時から夜11時までになり、従来より30分短縮された。昨年の秋ごろは夜12時まで営業していたのが、ことしの正月を境に11時半迄になり、今度また11時に早められた。料金は値上げになる、営業時間は短縮されるでは、何が客へのサービス向上かと文句も言いたくなるね」と憤まんをぶちまける。
一方料金が不ぞろいなことについて県環境衛生課「ふろ代は最高限度額を示したもので、県が示した額以下の料金で営業する場合は何ら法的に問題はない。ただ業者間で不都合にことがあるだろうが・・・」といっている。

入浴料金は公衆浴場法という法律で、各都道府県により条例で金額の上限が定められ、通常は浴場組合の取り決めで統一料金を設定する。そんななか老舗のおふろ屋さんが頑固に値上げに応じない。また今回の値上げに同調しないお店もちらほら。おふろ屋さんの生活のためにも値上げをして、安売り合戦でお客の取り合いにならないよう歩調を合わせたい浴場組合ではあるが。

現在宇都宮市内に現存する銭湯は、2018年3月に材木町のさざなみ湯さんがなくなって、若草の宝湯さんだけである。従来のスタイルの銭湯が進化して、サウナや飲食施設の充実したスーパー銭湯に役割や文化が引き継がれていると考えるなら、それはそれでいいのだけれど、やはり地域に根差した街の銭湯の存在が消えようとしているのはさみしい。あなたのご近所にも銭湯があったという記憶を心にとどめて、そしていつか誰かに伝えてほしい。