がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

佐貫観音奥之院ご開帳の下見

3月15日に執り行われる佐貫観音奥の院のご開帳を前に現地を訪問してきた。

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鬼怒川左岸の佐貫字岩戸に国指定史跡の磨崖仏、佐貫石仏がある。「佐貫の観音様」として親しまれている佐貫石仏は平安時代末期の作とされ、観音岩の崖面に八葉の蓮弁の台座に乗る大日如来座像が線刻されたものだ。像の高さは18.8mで、宝冠には大日如来の種字であるバンがみられたという。現在では崖面の風化がすすみ剥落も激しく線刻がほとんど確認出来なくなってしまった。
縁起によれば大同元年(806)弘法大師が各地巡錫のため佐貫に来た際に、衆生済度(仏道によって大衆を救い苦海を渡らせ極楽浄土に至らせる)のために密教最高仏である大日如来の磨崖仏一夜にして刻んだと伝えられる

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ポスターに見られる佐貫石仏の線刻。昼光なら多少わかるのか?今日は小雨でさっぱりわからず。顔の下に描かれているのは智拳印?

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136年に一度の奥の院ご開帳の儀式に伴い、今回佐貫観音の眼下に道場を築き柴燈護摩供を執り行うとのこと。その役を那須修験道昇龍講が司ると事前に教えて頂いた。これはもう見学に行くしかない。

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それにしても思いのほか道場が断崖に近い!川風だから断崖に向かって吹くと思うのだが。かなり風化しているとはいえまかりなりにも国指定史跡であるからして。

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この魔崖仏の右上方に大悲窟奥の院と呼ばれる岩窟がある。中には開基とされる讃岐の藤原富正の念持仏、弘法大師作の如意輪観音と馬頭観音が鎮座している。言い伝えによればそのほかに数々の秘宝が納められていたという。しかし現在その奉納品と想定されるものは、東海寺所蔵の銅版曼荼羅と鏡鑑二面のみである。

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塩谷町史」より

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塩谷町史」より

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今回のご開帳、ウェブカメラをつけたご住職がクレーンと梯子で上がり奥の院の岩窟の様子を中継し、参列者は地上のプロジェクターで参拝するという。

佐貫観音 護摩木たき断食行開始 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

佐貫観音奥の院ご開帳 東海寺ご住職一週間の断食行に入る

2015/03/12 19:04

 かつては高さ64mの観音岩の頂上にある亀の子石に縄をかけて ターザンのように岩窟へ降りたという話だ。旧家には当時利用された縄が今もあるとのこと。ネットに散見する画像を見るとたしかに観音岩の上には人工的に開けられたと思しき盃状穴がみられる。

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佐貫観音院を管理する宇都宮市篠井の東海寺に伝わる由緒によると
当地天の岩戸観慶山(観音岩のことか)は天性の霊場にして昔から神々御鎮座の処であった 天平神護元年(765)佐貫国多度郡の主、藤原富正が正観音を持ち来て移住 平城天皇の大同2年(806)弘法大師が来られ観慶山と名付け護摩を挙げる 願いにより正観音を天の岩戸奥の印に奉り大師制作の諸仏開眼供養を行う この時すでに山肌には大日如来の尊顔が現れていた
とある。(塩谷町史)

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観音岩の下部には河川の浸食による空洞があり 祠が安置されているが、発掘調査により縄文・弥生・奈良・平安・中近世の遺物が確認されており、断続的に生活が営まれていた形跡がみられる。また琴平山神社の東側の丘上に環状列石が存在している。これらの調査においても、佐貫石仏の信仰が後世まで続いたと証明出来る奉賽的な遺物が発見できていない。修験的ともいえる石仏そのものの信仰は短期間で、比較的早い時期に放置されたものであるという。

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参考:塩谷町