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がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

石阿弥陀の一里塚@白河市白坂

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白河市内に唯一残る一里塚、石阿弥陀の一里塚(別名 芳野の一里塚)を観に行く。場所は白河南中学校の東側、「天地人」で上杉防塁とされた鍛冶屋敷跡の土塁も近くにある。

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鍛冶屋敷跡に現在住む方のお宅の敷地内に、地名の由来となった石阿弥陀の石碑を納めたお堂がある。もともとは一里塚を通る道沿いにあり、大正時代に現在の場所に移動された。

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なぜこの場所に一里塚があるのか。

R294沿い、奥州道中の皮籠集落は、ルート改修の際に「吉野宿」の人々を新しい街道筋に屋敷割りをし移転させて出来たのだという。「白河風土記」の皮籠村の項に

何レノトキ開發セル村ト云フコト詳ナラズ 往古ハ吉野宿トイヘリ 承安年中ヨリ皮籠村改ムコトハ吉次祠ノ條ニ出ス

 

とある。「吉野宿」とは何なのだろう?

 

また皮籠村村内の一里塚の項に

 

塚二ヶ所 一ハ村ノ北六丁二十間計リ今ノ官道ニアリ高サ四尺計リ回リ十二間三尺上ニ巨松一株アリ、一ハ村ノ東十丁計リ荒野ノ中ニ在リ高サ六尺回リ十五間餘往古ノ一里塚ナリ 塚二ツ東西ニ並ビ立ツ是レハ白坂村ノ驛路ニナラザル以前黄金橋ヨリ白川ノ南土武塚通リ城下ヘノ古街道ナリシ時ノ塚ナリト云フ此アタリノ道路ハ度々改革モアリシニヤ

 

とある。官道にあったのは、日本橋から46里目の皮籠一里塚だ。今は存在しておらず、「一里壇」の地名だけが残る。
もうひとつ、皮籠村の東10町ほどの荒野にあるのが、今回訪れた石阿弥陀の一里塚である。「往古」の一里塚で、黄金橋から白河の南側にある「土武塚」を通って城下に入るルートだった頃の一里塚、とある。

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安田初雄「所謂六郡絵図とその歴史地理的意義」という論文について以前ちらと紹介した。奥州道中の皮籠一里塚から新町一番丁の野郎ガ茶屋前にあったという白河一里塚までの距離が一里に足らない理由を推察する中で、奥州道中が出来た当初は別のルートだったから、と書かれている。「鬼越ルート」といわれるものだが、これは南湖の東の「土武塚」は通らない。白河風土記での説明とは微妙に違う。

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阿弥陀の一里塚は奥州道中が整備された当初、慶長年間に作られたものであることがわかった。もともとはこれが、境明神の一里塚の次の、46里目の一里塚だったのだ。

白坂から現在のR294を離れ、石阿弥陀の一里塚、鬼越へと、当初の奥州道中がどんなルートであったのか、調べてみたい。