喜多方市のおもはん社のHP、佐藤健郎氏の「地名の中の歴史」のページより
『会津藩家世会津藩家世実紀』によると、会津藩では、寛文七年(一六六七)四月一日より、一里三十六町の制を実施し、領内の主要街道に一里塚を築いてい る。またこの時、白河街道と越後街道の起点は白河の一里塚とし、下野街道と米沢街道の起点は五十里(栃木県藤原町)として一里塚を築きなおしている。
下野街道の一里塚の基点が五十里?どういうことだろう?会津藩預かりの幕府領地、南山御蔵入領の南端である五十里(に一里塚ってあったっけ?)から計測したと?そのうち調べる。
参考 定説 大町札の辻が基点(安田初雄氏の甲賀町口北の四ッ辻基点説)