がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

一里塚の基点の件

五街道の一里塚は、江戸日本橋を基点にしている。慶長9年2月、江戸幕府による「将軍家被仰出 諸海道ニ一里塚つき可申」旨の指令により道中奉行を通じて諸国の大名に伝達され築かれた。

では、五街道以外の脇街道はどうだったのか。会津と阿久津河岸を結ぶ街道の基点は?

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大町札の辻

会津西街道、会津中街道の一里塚の基点に関しては、なんとなく会津側なのでは、と思っていた。そもそも会津藩の廻米を運搬する目的で整備された街道だし。奥州道中の(古町)一里塚から分岐して繋げて数えるってのはどうも。
会津五街道プラス1(二本松街道、米沢街道、越後街道、白河街道、会津西街道、そして会津中街道)の基点といえば大町札の辻だ。当然一里塚の基点も大町札の辻なのだと思っていた。新編会津風土記に「一之町と七日町に岐るる十字街に官より命せられる掟条目の制札を懸く、因て此街を札ノ辻と云、四方の里程これより数を起す」とある。


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大町大町札の辻

しかしそれはどうやら違うらしい。

論文「仙道及び会津における一里塚に関する諸問題」安田初雄(福島大学教育学部論集40号,1986-11)で安田氏は、各街道の会津若松城から一里目の塚の距離を実測している。白河街道の瀧沢一里塚、越後街道の若宮一里塚、塩川道七日町一里塚、南山通り(会津西街道)飯寺一里塚、宇都宮街道(会津中街道)御山一里塚・・。その結果、一里の距離でしっくりくるのは大町札の辻ではなく、「甲賀町口北の四ッ辻」らしい。蒲生時代は「日野町口北」と呼ばれた処で、郭内の北側、札の辻より東へ4町ほどの場所だ。日野町口とは若松城の大手口(正面正門)で蒲生時代の城下の中心となった場所だ。


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甲賀町口北の四ッ辻

安田氏の実証を俺もやってみようと思って、それぞれの街道の最初の一里塚の位置を確認しようと「歴史の道」をひっぱり出してみたが、そんなディープな情報は載っていなかった。地租改正時の字限図や地籍帳から一里塚のあった位置を調べてるみたいだ。ちなみに会津中街道の御山一里塚は御山村字限図には載っておらず、字限図作成以前に消失してしまったと思われる。

「仙道及び会津における一里塚に関する諸問題」は福島大学学術機関リポジトリで閲覧・DL出来ます。