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がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

金丸原飛行場跡

ふらふら 旧跡・史跡

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ちょっと前の地図を見ると、金丸原飛行場跡の丘陵を走る細道に「黒羽街道」という名前が書かれていた。実際には丘陵を避けるように新黒羽街道国道461号が通っており、かつてはこの細道が主要な道であったことがわかる。国際医療福祉大学(1995開学)が出来る以前、丘陵を上がる坂道にはモーテルがあって、大豆田の湯泉坂には当時の看板が今だに残っている。

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明治43年(1910)地形図

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国道461号に平行するように東野鉄道の軌道跡が残っている。東野鉄道は大正7年(1918)から昭和43年(1968)まで運行されていた。JAなすの南部普及センターのある場所がかつての東野鉄道金丸原駅だ。カントリーエレベータ向かいの大谷石の倉庫は当時もあったものとのこと。金丸原駅は、金丸原演習場や飛行場への資材や食料、燃料の物資輸送で盛況だったようだ。写真奥の金丸陸橋は昭和51年に架けられたものだが、以前は木橋の陸橋が同じ場所に架かっていた。

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駅前通りを荒町に出ると正面に金丸原郵便局がある。この付近で金丸原の名前が残っているのはこれぐらいか。狭義の金丸原、飛行場のあった金丸原台地付近は、かつて「オウガ原(オウは金偏に奥、ガは鹿。金丸村、奥沢村、鹿畑村にはさまれた原っぱの意)」と呼ばれる入会地で、陸軍による徴用があって金丸原と呼ぶようになったという。

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電柱の脇にあるのが北金丸古町の道標である。「金丸廠舎へ二十二町四十五間」とあるのは、飛行場分教場内を通っていく、ということか。金丸原駅から飛行場にある分教場の建物に向かうには、この先の坂を上がるしかないようだが。

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坂手前の東野鉄道の軌道跡である。奥に見えるカントリーエレベーターが駅のあった付近。畑作業をしていた方に聞くと、丘陵上に上がる道はこの坂以外はなかったらしい。左斜面にある八雲神社は今も例大祭が行われているとのこと。その前の石碑には「生駒祭」と書かれている。徴発された馬の無事を祈るものかと思ったら、この八雲神社の境内で家畜の馬の安全を祈るお祭りをしたとのこと。

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那須の太平洋戦争」より 昭和14年頃飛行場略図

 

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新黒羽街道を渡るとそこにはイイ感じの門柱が。しかしこれには表に「大田原市立金田南中学校入口」、裏に「昭和三十三年十月十三日 金田南中学校通学道路整備委員会」とあり、中学校の通学路の整備記念に建てた柱標であることが分かる。この柱標はここだけでなく、奥沢側、西坪側にもあった。

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金丸小学校がこの道の左側にあったが、昭和20年(1945)8月13日の空襲で全焼した。何故こんな軍事施設の際に学校があったのだろうか。

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坂を上り詰めた所は国道461号バイパス。傾斜を緩やかにするため堀割になっている。道を隔てた向う側に行ってみる。

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分教場に通じる滑走路脇の道がそのまま残っている。この辺りに正門第一門柱があった。旧黒羽街道はこちら側の側道と思われる。ここにも先程と同じ「大田原市立金田南中学校入口」の柱標が。

金丸原飛行場の大まかな歴史は後述の記念碑の碑文内容を参照のこと。飛行学校は陸軍の空中勤務者である、操縦者の養成所だ。熊谷陸軍飛行学校は全国にいくつかの分教場があり、桶川分教場の兵舎は現在も残っているので当時の様子を知るには参考になるかもしれない。

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右側は見渡す限りの田畑である。この場所に滑走路が2面、源五郎窪を挟むようにして作られた。* 第一滑走路が1900m、第二滑走路が1300m。

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第二門柱付近

この付近に第二門柱、守衛所があったと思われる。この先、左手に格納庫群、右手に試運転場が並んでいた。現在の金田南中学校の敷地に入り、那須神社側から上がってくる道との交差付近に航空神社が祀られ、運動場、金田南地区公民館になっている場所に校舎、講堂、食堂などがあった。

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学校敷地内に建つ忠魂碑と大東亜戦争戦没英霊碑。もうひとつ肝心の飛行場跡碑が見当たらない。

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先日の震災で飛行場跡碑だけが倒壊してしまった。4.3mと高く、厚みが充分でなかったせいか。撰文は教官であった下鳥喜工氏(下鳥養蜂園創業者)。

   [碑文]
  金 丸 原
旧陸軍飛行場之跡

かつて、この地は広漠たる那須野ヶ原の中にあり、金丸原台地と呼ばれ、旧陸軍第十四師団の特設演習場の一部であった。この地と大空とのかかわりは、本邦最初の飛行技術者として知られる徳川大尉が、旧所沢陸軍飛行場より無着陸飛行以来浅からぬものがある。即ち昭和九年航空機の国産化が図られるとともに、旧所沢陸軍飛行学校不時着陸場となり、翌十年には満州事変後の飛行機操縦者の育成強化を目指し、旧所沢陸軍飛行学校金丸原分教場に指定された。更に、熊谷及び宇都宮の旧陸軍飛行学校分教場となり、総面積三〇〇ヘクタール滑走路二面を駆使して下士官学生第六十六期から第九十期及び特別操縦見習士官第一期より第三期学生等、数千名に上る精鋭なる飛行士を輩出させた。また、昭和十九年に到っては実戦上の重要な基地の一環として多くの特攻機を離陸させている。おもうに、飛行学校として十有余年、その間にこの地から巣立った若者の大半が青春の総てを大空に捧げて還らず、また、機体整備に夜を日に継いで尽力した軍人軍属、近隣から動員された学徒及び婦女子の辛酸は筆舌に尽くし難いものがあった。終戦、昭和二十年を機に時は流れ世は移り、あれほどに激烈過酷を窮めた出来事も人々の脳裏から薄らぎつつある。けれども幸いに今日まで生を得、なお社会の成員として世界に秀でた祖国の繁栄を目の当りに見るとき、この地で学び飛び立ったまま再び還ることのなかった戦友たち、青春の総てを限りない犠牲の中に費した者たちを忘れることは出来ない。ゆえに、この金丸原飛行場に払われた尊い犠牲を記憶にとどめて長く継承し、世界の平和と人類の福祉の永遠なることを念願して、ここに記念碑を建立するものである。
 昭和五十五年九月二十日
金丸飛行会
       建立
特操金丸会
    撰文 下鳥喜工

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