がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

大深堀温泉跡と白河道の道標

大沢から那須湯に向かう湯道沿いの大深掘に温泉(ぬく湯)があり、今でも祠の近くからお湯が出ているらしい。今回は前から気になっていた大深堀温泉を探しに行く。

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昨夜那須山塊で初冠雪があった模様。なためさんのブログでも高原山での初冠雪を報じている。

大深掘は8軒程の小さな集落。大沢の十字路から1キロ程西へ、苦戸川を渡って右に入る細道がある。その先に大深堀集落はあるが、道はずっと那須山麓方面に続いており、牧草地を抜けると別荘地、一番奥は御料地になっている。上の画像はその牧草地付近から撮影したもの。

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それらしい場所を見つけることができず、大深堀の集落に戻ってきた。温泉神社を見てみる。お社の両脇に箕の祠が並んでいる。
集落の通り沿いにもそれらしい祠は見あたらず途方に暮れる。
ちょうど公民館の前に農作業帰りのおばあさんが居たので話しかけてみる。話好きな方だったので色々と教えてくれた。

大深堀温泉はおばあさんが中学生だった頃まで(5、60年前か)旅館があり営業していたが、経営していた方が亡くなり閉館してしまった。当時はヤケドに効くお湯として有名だったらしい。旅館の前に池があり、池に育つ藻を患部に貼り、温泉をなじませることで、ヤケドのケロイドによる引きつりもなく綺麗に治癒したという。

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許可を得ておばあさんが教えてくれた大深掘温泉跡に行ってみた。現在でも源泉として登録されているらしく、年に一回県の役人さんが調査に来るらしい。そのためこの場所へ向かう山道も集落の人たちがきれいに刈ってくれている。

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山道のどん詰まりに跡地はあった。崖下に土管、そこから延びる塩ビパイプ。もともとは窪地だったらしいが、余笹川洪水のあった年、大雨で崖が崩れ、源泉が埋まってしまったらしい。集落の人たちで土管を入れ、お湯を苦戸川に配水するようにした。

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お湯は塩ビパイプではなくその下の斜面から出ていた。手を入れてみると確かに温かい。34、5度位だろうか。年々湯の温度は下がっているという。営業当時も湧泉を湧かしていたそうだが。

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藻をさらって患部に貼ったという池。集落の人もこの水で作物が作れないかと試したらしいが無理だったらしい。旅館があったというが、まったくそんな雰囲気の場所ではない。まあ、当時はこんなに藪ではなく、苦戸川が見渡せたかもしれないが。

[追補]
大深堀温泉は明治26年頃に開業、食糧事情の悪くなった昭和15年頃には営業は停止された。戦後は一時住宅として利用されていた。(「那須の湯道を歩く」注記より)


おばあさんには他にも色々と興味深い話を聞かせてもらった。集落では庚申講も続いているらしく、今でも西郷線沿いの石仏のカミ様の管理とお参りは欠かしていないそうだ。

そんな中、自分は道標と昔の道の探索が趣味だという話をしたら、家の庭に道標の石があるよ、とのこと。おばあさんの家所有の田んぼを圃場した際に出てきた石らしく、歴史的なものなので保存する事に決め、自宅の庭に置いてあるという。

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大深掘の道標
[正面]
右ハ ひやり
         道
左ハ 大□加□り

年代不明 80×45×19cm

「ひやり」とは大沢のこと。おばあさんは左はコヤ(現在の池田)に違いない、と云っていたが、みつかった場所からして「大フ加ホり(大深堀)」で間違いないだろう。西郷線から右に入ると大深堀集落がある分岐にあったもののようだ。隣にあるのは元屋敷にあった猫の石仏とのこと。悪いことが続いて飼っていた猫の怨念のせいと弔ったものとか。

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道標隣の猫像



西郷線沿い、小深掘の水道施設裏手にも道標あり。

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小深掘の馬頭観音

[正面]
   右 志ら川
馬頭観世音
   左 ひやり
[裏面]
                  
              願主
弘化三丙午七月吉日
                 陽左ェ門
            
192×41×18cm

さらに綱子へ。

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綱子の道標

[正面]
右なす能ゆ
[左]
左 於ぎのく保
[裏面]
安政三丙辰年三月建
[右]
  味噌屋
  升 屋
白 大坂屋
  柾木屋
  藤 屋
川 松川屋
  藤 屋
  益屋 

などなどずらりと白河の商店の寄付者が並ぶ
30×122×28cm

地元の方によると、この道標は元々この場所にあったものではなく、綱子集落を入った山の中にあったものだという。これについては地元の方から興味深い話を聞いたので、後日現地調査に入る。