がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

両部の滝@那須

沼ッ原から給湯管保守道(湯道)を通って両部の滝へ。

 

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メンバーはQ造さん、Yosiさん、ハクセキさんと俺。


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下草刈りをしたばかりのようで、とても快適。時折り現われる給湯管が御宝前の方向を指し示している。
以前、沼ッ原から会津中街道跡である自然道を辿り、乙女の滝まで下った際にも、時折この給湯管の四角い構造物があり、自然道と並走していた。かつて多くの行者たちが尊びあがめた白湯山御宝前の湯から白笹山山麓の別荘地に引かれている。白湯山信仰について興味を持つきっかけとなった「三斗小屋温泉誌」のなかで、故 高木光昭氏が「聖域」御宝前の荒廃に憤っていたのが印象的だったが、俺のような素人がこの秘境に辿り着けるのも湯道のおかげだし、立場は複雑だ。

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それにしても湯道の、路肩崩れ防止の石組みや坂の石畳など、施工の仕方が趣深い。コンクリを使わない割石の石組みは材料を運び込むのが困難な為なのか、それともこの道自体それなりの歴史があるものなのか。管理会社は昭和35年の設立なのだが・・。それと、なぜこんな山奥からの引湯を今も続けているのかも気になる。給湯管保守費用を考えれば、今の技術なら別荘地近くにボーリングで温泉を掘削したほうがコストもかからないのでは、などと思ってしまう。ボーリング技術が発達する前の開発だとすると昭和20年代以前?それとも霊泉御宝前の湯へのこだわりが?

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水場を過ぎると、谷から滝音が聞こえ始める。

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先人の道跡を辿って崖を下り御澤に降り立つ。標高差は40mほど。

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田代音吉 著「三斗小屋誌」(黒磯市図書館所蔵版) 明治44(1911)
第五章 神社古蹟勝地 御澤ノ五瀧 両部ガ瀧 の項より
常用漢字 現代かな使いに改め、区切りを空白、文末に読点をつけた

三斗小屋より東方約拾八町(1963.6m) 那須噴火の下にあり。上部水源は二流にして下方合して一となる。しかして右方は温泉 左方は水にして 高さ僅かに拾弐間(21.8m)あまり 巾およそ下方にて九尺(2.7m)あまりに過ぎざれども 潺々(せんぜん)として声あり。流れ砕けて軽絹となり。幽瀑冷々として 白玉の転落するがごとし。ことに右方は温泉なるをもって 湯気飛沫と霏散(ひさん もやがただよって)して珠玉の舞うがごとく 硫黄華混して蜿蜒(えんえん)たる白龍のごとし。轟然もって壮観極まりなし。またみずから霊気冥合して仙界に趣ける観念を覚ゆべし。
この瀧の右なるを伊弉諾尊(いざなきのみこと) 左なるを伊弉冉尊(いざなみのみこと)の神霊として礼拝す。
昔し寛文年中今を去る殆んと二百五十年前 遠海 相海の二人の山伏修行のためこの瀧壺に籠り 一千日の修行をなせりという。なお記念として二人の肖像石に彫刻あり。

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御澤五滝略図

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右滝

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左滝

両部の滝は、別名、夫婦滝、権現の滝ともいわれている。右の滝は御宝前の湯を水源としているため白く濁り、水温もぬるい。左側は本流からの水である。遠海・相海の千日修行の肖像は見つけることが出来なかった。

こちらで解明


かつての「幻の滝」騒動については知らなかったが、当時を知る世代の人達にとってはなつかしの、そして憬れの滝なのだな。当時のフィーバーぶりをちょっと調べてみよう。それと湯道についてもかな。


幻の滝騒動 - がりつうしん


白湯山/高湯山信仰 御宝前@那須 - がりつうしん