がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

尾頭峠小滝側の探索の1

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尾頭峠(標高1142m)は、那須地方と会津地方の文化圈を隔てる境となる峠だ。以前から興味があって、昨年は、三依側の明治尾頭新道と、尾頭沢を遡り九十九折の坂を上がる中世・江戸期の道を辿ってみた。今年は小滝側からの尾頭峠への道を探索しようと思い立った。尾頭峠を巡る道の歴史の大まかな流れについては以前の記事を参照されたし。

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上三依熊野堂道祖神前、尾頭沢渡渉点

関東と東北の境、山王峠(標高905m)は、なためさん他山歩きのベテランの方達と行ったせいもあるけど、意外にあっけなく峠に着いた印象がある。ダンゴ石沢側から峠に向かっていたら、また違う印象を受けたかもしれないが。江戸期の山王峠越えは、横川宿から山王茶屋までが一里半(6km)ほど、対し尾頭峠は上三依熊野堂追分から小滝宿までで三里(12km)ある。探索しながらの通しはちょっと無理だが、全貌が掴めたら一度通してあるいてみたい。

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塩原の温泉街を過ぎ、中塩原を過ぎると、ゆるやかな別当坂を上がり、しばらくして箒川は今尾頭沢と元尾頭沢の合流点になる。ここが上塩原温泉で、中山の南側斜面に小滝温泉神社を奉る小滝の集落がある。ここで元尾頭沢の橋を渡り、今尾頭沢沿いの道を通って峠へ向かうのがかつてのルートだ。尾頭峠への道は江戸期に使用された今尾頭道と、明治期に作られた尾頭新道があるのだが、手始めに今尾頭道を辿ることにする。

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天和3年(1683)の日光大地震により戸板山が崩れて男鹿川が塞き止められ、会津西街道が遮断され、脇道であった尾頭峠越えの高原街道が会津西街道の新たなルート(高原通り)として利用されるようになる。この地震でもともと存在した三依と塩原を繋ぐ元尾頭道が崩れ落ち使用不能となったが、大戸原(うどがはら=大道ヶ原)を通る今尾頭道が新たに開削された。このルートを塩原通り、または小滝通りと呼んでいる。塩原通りは小滝宿から塩原、関谷宿場廻りで会津中街道上石上宿に入り阿久津河岸に附け送るルートだ。また八方通りを越え、泉から会津中街道矢板宿に入るルートも存在した。

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上塩原小滝宿は宝永2年(1705)、幕府の命により開かれた。問屋と庄屋を兼ねていた平左衛門は湯本村から移り住み、会津からの廻米・御用荷物その他の運送を請け負った。小滝宿は十数軒の宿で、仲附の荷継ぎなどを主に請け負い、小滝から中塩原村、下塩原村と箒川沿いを下り、関谷(屋)宿場まで運搬した。

 

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今尾頭道入口

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小滝宿跡を過ぎると舗装道路はすぐに左にカーブするが、まっすぐ沢沿いに進む林道入口がある。これは車両が通れるように新しく作られた道だろうが、その崖下にかつての道跡らしい窪みがみられる。

 

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林道入口付近の南斜面に今尾頭道沿いにあった石仏が集められている。峠道の安全を祈って建立された宝永7年の六面石憧地蔵尊や、馬頭観音阿弥陀如来などが並んでいる。これらは上塩原村小滝引久保中山組の人たちによって建てられたものだ。

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支流の棚畑沢を渡り、少し坂道を上がると大戸原(うどがはら)に出る。坂の入口の右側に庚申塔があり、かつての道跡らしい窪みが残っている。ここが村境ということか。以前は庚申塔の脇に自然石の大戸原の道標(右あいづ 左やま道)があったが近年消失してしまった。
大戸原は文亀2年(1502)橘朝臣伊勢守源綱宗の討死した場所で、念仏塚が今も現存するようだ。

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大戸原から雑木林に入ると、すぐに今尾頭川右岸の斜面中腹の狭く危険な道となる。これより下流がゴルジュ(峡谷)になっており、巻き道が作られたようだ。堰堤の上で沢に降りる。

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堰堤からは伏流したゴーロ(平坦な河原)となっており、左岸の一段高い場所に道跡らしき部分があった。それも長く続かず、沢底をしばらく進む。何箇所かゴルジュを巻く部分のみ道跡をみることができるが、果たしてこれが当時の道なのかは定かでない。道跡沿いにいくつも炭釜跡がみられ、また狩猟者や釣り人も行き来しているようだ。三依側尾頭沢のようにわかりやすい棚状の道跡は存在せず、岸の斜面に道があった可能性はないでもないが、今尾頭沢は水量も少ないので、何度か沢を渡りながら沢底を進む道であったと思われる。

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土呂見堰堤

沢に降りた堰から750mほど遡上すると、大きな堰堤が存在する。左岸側の斜面から水が染み出て流れ落ちる姿は美しい。左岸斜面から上がり堰堤を越えた。

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左岸斜面の上から

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堰堤の先は再び伏流した広いゴーロで、何度かゴルジュを巻き、土呂見堰堤から600m程で沢は南に屈曲する。

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屈曲点から200mほど進むと左岸にナメ沢が合流する場所がある。中道沢といい、これが峠へのルートの目印だ。

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中道沢右岸に炭釜跡の残る道跡があり、70mほど進むと小さな沢との分岐となる。これが中道沢の由来で、ナカドウとは二俣の中間尾根を意味するようだ(Yoshiさんより)。左の支沢を100m程進み左岸の中央尾根に取り付きがある。ここからが四十七曲がりの上り坂となる。

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参考文献・サイト
山野・史跡探索(Yoshiさんのサイト)
塩原温泉郷土史研究会(君島榮七先生の「塩原の歴史」が底本)
塩原の里物語/同編集委員会/随想舎
会津西街道の歴史を歩く/佐藤権司/随想舎
栃木の街道/栃木県文化協会/月刊さつき研究社

 

 

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