がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

大宮宿と上平河岸

塩谷町の旧大宮宿。

f:id:gari2:20141111211234j:plain

ここは、玉生から大宮、上平渡を経て宇都宮に向かう田原街道と、かつて氏家阿久津河岸に荷物を運んだ会津西街道大宮通りの分岐点。この場所にも「立場」の屋号の店がある。「塩谷町史」によると、大宮には明治期に建場があり、荷馬車一台と駄馬数頭を置いていたとある。



田原街道(現上寺島宇都宮線)は宇都宮城下へ年貢米、木材・薪炭を運搬する上で重要な道であった。
大宮宿から南に向かうと鬼怒川に出る。ここが上平という集落で渡場として、河岸として重要な場所であった。

f:id:gari2:20141111211319j:plain

現在は河川敷の堤防で行き止まりとなっている上平は、鬼怒川を渡る渡船場であった。宇都宮藩により関所が設けられていたのもこの場所だ。安政3年には西船生とともに筏川下げの河岸が新設される。この上平河岸から高原山の木材は筏組みされ、江戸に運ばれた。

f:id:gari2:20141111211358j:plain

上平の水神様

渡場に木橋が掛けられたのは昭和初期のことで、逆木止まりだったバスも玉生まで乗り入れできるようになった。昭和27年に架けられた上平鉄橋は、ついこの前まで架かっていたのだが、現在は取壊されすぐ下流にバイパスが通っている。かつては田原街道といえば対向車とすれ違うことが出来ない幅の狭いこの橋と、曲がりくねった狭い道の印象があったが、今では立派な橋に架け替えられ、広く真っ直ぐな道に整備されている。

バイパスが作られたことにより交通の流れが変わり、大宮・上平集落は素通りされ、忘れられようとしている。塩谷町はもっと旧大宮宿の歴史上の重要性をアピールすべき。裏通りの旧道の分岐に移動された道標を戻そう。船生・玉生のイメージキャラクターが芭蕉と楚良なら、大宮は水戸天狗党の武田耕雲斎だな。