がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

関道往来 追分より関山

追分明神(関東明神)より北に3kmほど行くと右手に関の森がある。

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白河の関蝦夷南下の防衛の要所として置かれた年代は、5世紀前半、遅くても大化の改新の頃と考えられている。しかし律令国家の衰退とともに関としての機能は失われ、その施設も放棄された。12、3世紀には廃絶したものとみられ、いつのまにかその場所さえも忘れられてしまった。

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江戸時代後期、白河藩松平定信は地形や文献、古老の話などの考証により、関の森が白河関跡であると断定し、寛政12年(1800)にこの「古関蹟(こかんせき)」の碑を建てた。それより111年以上前の元禄2年(1689)4月、芭蕉曽良の一行がこの地を訪れている。未知の世界であるみちのくの入口の奥羽三関は、いにしえより歌詠み人のロマンをかき立てる聖地ともいうべき場所だった。白河の関を歌枕にした名句を口ずさみながら、その面影を探すが、結局なにも見つけることはできなかった。

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関の森は南北に180m、東西に140m、高さ13mほどのすり鉢状の丘陵、うっそうとした森になっている。昭和30年代の発掘調査により竪穴住居跡、掘立柱建物跡、空堀、土塁、棚列、鍛冶場跡、南・西・北門跡など、古代から中世の遺構が発見された。「従二位の杉」より神社階段の上り口あたりを古道が通っていたそうだ。

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丘陵の上に立つ延喜式内社の白河神社と、境内にある奉納相撲用の土俵。また丘上には白河関を題材にとる平安時代の古歌の碑がいくつも建てられている。

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白河の関跡入口の道標
152・21・21cm 寛永11年(1634)
[正面]
是より東五十歩にして関蹟にいたる
[右]
(後から彫られたと思われる移動した旨の説明)
[裏]
寛永十一一月望白河関
成奉命□余語克

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関の森から北へ50m、左手の小丘に旗宿の石仏群がある。丘の麓に2つの道標がある。

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旗宿の道標1
51・18・17cm 延享3年(1764)
[正面]
  日光
左    道
  江戸
[右]
  白坂
右    道
  寄居
[裏]
  延享三寅歳
   七月日

この白坂・寄居道は和平を経由するルートで、現地の人によると、かつてこの道標のある路地から入ったところに社川を渡る橋が架かっており、芭蕉はこの道を通って旗宿に入ったのだそうだ。金堀ルートという説もあり断定できない。

旗宿関の森の道標2
74・17・16cm 大正6年(1917)
[正面]
 左 くろばね 七里
[右]
 右  白坂 寄居 二里
[裏]
 大正六年三月 旗宿青年団

その先県道76号線と280号線の分岐に道標がある。関山を西に迂回する十文字方面と、関山越えまたは東に迂回するルートの分岐となる。

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中野下滝沢の道標
81・21・23cm 大正13年(1924)
[正面]
白河関趾ヲ経テ栃木県
[右]
白河の関屋を月のも(るかげは)
人の心を(留む)るな(りけり)
[左]
白河町ニ至ル
[裏]
東宮殿下御成婚(記念)
大正十三年五月旗(宿青年団

分岐点にあり下部は欠損している模様。右の句は鎌倉時代西行法師が廃関となった白河の関屋の柱に書き付けた歌。昔は関守が人をとどめたように、いまは月が人の心をとどめさせている、の意。

東山道はこの先、関山の丘陵を避け西に進路を取り、表郷番沢(雄野駅)から中島村双子塚あるいは矢吹町中畑付近(松田駅)を通るとされている。関街道は関山の東西に避けるルートと、内松から関山を登り二枚橋に出るルートがあったという。芭蕉一行は関山を登り満願寺を詣でている。
表郷の関山周辺にはいくつか道標が存在するようだが、それはまた今度。

まだつづく。