がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

天狗党の碑@簗場

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黒川沿いの中の川集落の川下、菖蒲沢と黒川集落の間の東岸に簗場と呼ぶ平地がある。その山岸に天狗党浮浪徒十四人の墓が南西を向いて立っている。現在は田圃となっているが、元治の頃は萱や葦の生える秣場だった。

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元治元年甲子年十月十九日
浮浪徒十四人墓
明治九年丙子年十月 十三回忌建之

[台石右]
發起人 高藤元讓
世話人 秋山義平
     本田 孝八
     長岡傳吉
     有馬勝之
[台石左]
明治十九年十月十九日
二十二回忌供養
發起人 高藤元讓
世話人 秋山峯太郎
     鈴木藤吉
     高藤傳一郎

文久三年、天狗党の藤田小四郎らから別れた一派、田中愿蔵を頭領とするグループが転戦のあと八溝山に立てこもる。食料が無くなり武装解除し、土民を装って両郷村、須賀川村、棚橋村、棚倉村などに潜んだ。飢渇に迫られ芦野藩の領地の梓、大畑、沓石などのバンカリ小屋に這い入って生米を喰らい、あるいは民家に忍び入り食料を盗み喰うなどした。芦野藩は領地内で天狗党の浮浪徒14人を捕縛し投獄した。藩は浮浪徒をいかに処罰すべきかを幕府に打診し討首の指令を受け、元治元年秋、簗場平に於いて斬首した。

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その中に、峰岸内記という骨相逞しい総髪の男がいた。一番最後に自分が斬られる番になった時、出役の町年寄らの前に歩み出て永々と厄介になった謝辞を述べ死に就いたという。
辞世の句
聲(こえ)きかば尋ね来て見よ時鳥(ほととぎす)
 君を思ふて鳴かぬ日はなし

打首14人の氏名
髪結 駒吉(19)
農民 藤吉(22)
農民 惣次郎(16)(左腕に鋭創あり)
農民 六右衛門(24)
農民 文之助(18)
馬喰 源吾(22)
農民 松蔵(25)
農民 信吉(28)
農民 鈴木庄吉(27)
農民 要蔵(18)
農民 倉次郎(18)
    荻野栄吉(48)
    荻野新吉(16)
野州足利大日門前當止派修験下法院誠光
田中愿蔵組隊長 峯岸内記(34)

其方共浪徒田中愿蔵組所々横行及戦争候段不恐公儀仕来重々不届至極付死罪申付候也 十月十九日

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処刑の翌月、武田耕雲斎の率いる天狗党の1千余名の大部隊が芦野を通過する。大子に天狗党が集結したという知らせを受け、芦野藩は、唐木田から上の町の南端まで街道沿いに約200mの土塁を築き、門柵を急造し幔幕を張って陣地を造った。夜もかがり火を焚き厳しい警戒に当たっていたが、いよいよ天狗党一行が芦野に発ったという報が届くと、芦野の軍勢は全員逃げ出してしまったという。

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その後交渉の末、芦野氏は城下には入らない代わりに本道の奥州道中の交通を許可した。後に交渉役の町奉行、小林準作が耕雲斎を訪ねて酒代として300両を献納したという。状況を知らなかったとはいえ芦野藩のメンツを立ててくれた礼、そして仲間の14名を幕府の命令とはいえ処刑した侘びも含まれていたのか。

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天狗党一行は西坂の登りつめた広場で昼食を取る。といっても1千余名の大所帯、先頭は夫婦石まで届いていたかも。その後夫婦岩の山際の民家付近から丘陵を越え、下ると黒川だ。一行は刑場から500m南の奥州道中を、大声で話しながらドカドカと通り過ぎていった。彼らは半月前のこの地での田中愿蔵組の14名の処刑を知ってたのだろうか。

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天狗党浮浪徒十四人の墓には、昭和20年頃までは処刑者の遺族らが墓参りに来ることがあったそうだ。簗場の平地を今でも土地の人は刑場とか首切り場と呼んでいる。

参考文献:「那須町史上巻」「芦野小誌」「天狗党が往く」

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