がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

紅葉ウォーク 尾頭峠の2

塩原温泉ビジターセンター主催の「紅葉ウォーク1 尾頭峠」つづき。
コースは、尾頭トンネル上三依側入口~東京電力鉄塔22号~尾頭峠の分岐~高原道~大塩沢峠~大塩沢林道(元湯林道)~元湯近くの林道分岐、というもの。

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ケムリタケ(タヌキノチャブクロ)

22号鉄塔からコースに戻る。尾頭トンネル上三依側入口のつづら折から尾頭峠を経て高原会津西街道の旧道だ。会津西街道は天和3年(1683)の日光大地震で葛老山(板戸山)が崩落、男鹿川を堰き止め、その川筋に沿う会津西街道を寸断した。結果五十里湖が出来、五十里宿と会津西街道は湖底へと沈んだ。会津から江戸への廻米の運搬が出来なくなったため、急遽上三依村から尾頭峠を通り、尾根伝いに高原新田に通じる「会津西街道高原通り」を整備した。高原道は鎌倉時代の安貞元年(1227)に開削されたという記録が残っているらしい。関白秀吉が天正18年(1590)8月、奥州仕置の帰路通ったルートも高原通りで間違いないようだ。

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 高原新田宿の成立は、万治2年(1659)4月の田島の大地震で、塩原湯本湯治場(元湯千軒)の被災した住民の喜兵衛ほか5家族が高原に入植したのが始まりだという。会津西街道は五十里宿から高原越えをして藤原に下りる道筋で、その高原上に集落を形成し、延宝5年(1677)正式に高原新田宿として宿場と決められた。

 

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数10mで尾頭峠となる。ここは小滝に下りる塩原通り「尾頭道」と、新大塩沢峠を経て高原新田に向かう「高原道」の分岐点となっている。

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こちらが尾頭道で切り通しになっている。尾頭道は尾頭山の中腹の尾根にある倉下山の南側、今尾頭沢に沿って作られている。尾根の先端が小滝宿だ。会津西街道の寸断により代替ルートとして整備された「会津西街道塩原通り」の道筋である。

「尾頭道」には中世の「元尾頭道」と江戸期の「今尾頭道」、そして三島道路善知鳥沢越えのルートのバイパスとして明治26年(1897)に地元有志によって整備された県道三依塩原道「尾頭新道」がある。現在尾頭峠側から辿れる道は、S30年代までは行き来があったという。尾頭道は以前から興味はあるのだが、詳細が分からないので詳しいページのリンクを挙げる。

「高原山探訪」(Yoshiさん) 尾頭峠・高原新田関連の旧道の踏査
塩原ビジターセンター H16年度 新緑ウォーク尾頭峠の資料

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切通しの入り口脇に明治20年建立の馬頭観音が立っている。上三依の住人が建てたものだ。

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尾頭峠にはもうひとつ、「李王垠殿下御通過記念」の石碑が立っている。李王朝の最後の皇太子である李王垠殿下が、S12年2月9日に連隊長として将兵334名、馬31頭を引率して積雪3mの峠を雪中行軍した記念碑だ。

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分岐を左に。

尾頭峠

戊辰戦争時、塩原に駐屯した美濃国郡上藩の凌霜隊40余名がこの峠を越え会津方面に転戦している。明治以降は塩原街道の近代化の中で改修され、三依地方と郡役所の置かれた矢板町を結ぶ最短路として利用されていたが、明治37年磐越西線が開通すると会津方面からの荷物が全く途絶え、峠道は衰退し廃道への途をたどった。第二次大戦後は県道251号に指定され、自動車道路の建設が進められたが塩原側が険阻のため難航、長い間車両通行不能区間であった。昭和57年国道400号に昇格、昭和63年バイパスとして峠下を尾頭トンネルが貫通した。

 

紅葉ウォーク 尾頭峠の3 - がりつうしん

 

紅葉ウォーク 尾頭峠の1 - がりつうしん