がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

会津中街道 湯川渡河点から乙女の滝を歩く

会津中街道の復路。前回は大峠まで来たので、今回は大峠から三斗小屋宿跡の予定であったが、三斗小屋宿から大峠の間の旧道はかなり荒れており、藪に覆われつつあるという。そもそも沢登りをする人々にとってはポピュラーなルートらしく、まったく忘れ去られた道というわけではないそうだ。

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左 旧会津中街道 右 登山道 那珂川源流

たとえば有志でこのルートの藪を刈るなどして整備したいと申し出た場合、登山道から外れて遭難する可能性が大きくなるため問題があるという。登山道を開くと管理者責任が問われる、みたいな話もあるし。・・基本的なことを聞くけど、登山道の整備・維持をしているのは営林署?国立公園だから林野庁



 
 
 
 
 以前新刊チェックしてたら、こんな本があった。


今回は沼ッ原駐車場から麦飯坂を下りて湯川渡河、三斗小屋手前の分岐道標を見に行って、同じ道を沼ッ原まで戻り、乙女の滝まで降りる、という行程を歩いた。

では、いきなり三斗小屋手前の分岐道標から。

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いつの間にか分岐道標手前に、北那須ライオンズクラブさんがきれいな石柱道標を建立していた。以前は同じ場所に木製の立体交差の道標があって、道標の撮影をする時正直うざったかった。個人的な意見になるが、狭い街中ならまだしも、この山中で、寛政5年の交通事情にあわせて宿場側からの向きに合わせなくたっていいのに、と思う。分岐とはいえ丁字路だし違う角でもいいような。道標だけでなく、道標のあるこの分岐の情景を楽しみたいのにね。白湯山林道もさらに拡幅されたような印象を受ける。

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湯川(苦土川)に戻ってくる。GPSログは湯川始まりのものだ。

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麦飯坂のつづら折を上がっていく。途中、「麦飯坂の一里塚」と考えられている人工的な隆起がある。確かに地図上では早坂峠の一里塚から4km附近なので、この辺で間違いないはずだが。

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天保11年建立の麦飯坂の馬頭観音。このすぐ左手に旧道らしき道と現登山道との分岐がある。現在の登山道はまるきり旧会津中街道だというわけではない。こういった石碑がある場所は動いてないと信じるとしても、これだけの急坂のつづら折では崖崩れやコンディションの悪化で、何度もそのルートを変えていったことだろう。沓石観音より南の附近では、登山道と並行するように旧道らしい道型(窪み)が確認できる。

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沓石観音 馬の鞜を履き替えた場所だったという。

三斗小屋宿跡に掲示されている地図

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那須山麓の民俗」掲載の図を基にしたと思われる。古老が伝えた謎の地名「ジロヘイキャツブシ」「ノゾキ」「オハルキッパ」「ナカドウ」がポイントされている。沓石観音附近がジロヘイキャツブシではないかといわれている。どういう意味だと思う?

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沼ッ原の子守石 。この先、沼ッ原調整池が建造され、道跡は消失する。沼ッ原調整池は昭和48年に完成したダムで、それ以前の沼ッ原は馬の放牧地として使用されていたという。GPSログでは車道から登山道に入る入口まで直線に繋いだ。

上記の地図では沼ッ原を出てすぐに「ノゾキ」がポイントされている。この名称は、高い位置から谷底を思わず覗き込んでしまうような見晴らしのよいポイントが推定される。沼ッ原駐車場に入る車道の西側は沢名川を眼下に望む崖になっている。この附近が「ノゾキ」と呼ばれてもおかしくない。

しばらく登山道を行くと車道のカーブ地点に出てくる。その先ルートは藪に覆われるが、藪を抜けたところに岩の露出したところがあり、その上に地蔵が不安定に載っている。

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これが享保9年建立の早坂峠の地蔵尊だ。前田製管の管理林附近で、車道のすぐ近くにある。位置的にこの地蔵尊が「オハルキッパ」なのではないかといわれている。
「オハルキッパ」の意味とは?
おはるという少女が薪(木っ端)拾いに出て遭難した、その供養のため建立されたのがこの地蔵だ、ってまったくひねりがないな。

その先、車道沿いに行くと左側の林にこんもりとした塚が確認できる。

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早坂峠の一里塚の東塚は、高林郷土史研究会が推定したもの。西塚は車道を整備した際消失したという。
このあたりは現在の車道のつづら折をショートカットするように登山道は作られている。どこまでが旧会津中街道をそのまま整備したものなのかは詳しく分からないが、車道を整備した際に堀を切った部分もあり、道跡が右上の土手から左上の土手をまたぐといった箇所もあった。

明42測図5万分の1地形図「那須嶽」の部分を拡大したもの

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この地図に表されている大峠から板室に至る道がもっとも会津中街道の道筋として参考になるものだ。今回は10人の大所帯で簡易な探索であったが、なためさんは行程の途中で、現在の登山道とも車道とも違うルートの道跡の解説をしておられた。現在の測量技術からすると結構適当な作図に思えるこの地図からでも、稜線と実際の地形からある程度の道筋の推定は可能なのだそうだ。

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この先、前回は沢名川西岸沿いに登山道を降りたが、実際の旧道は東にルートを取り、「板室本村簡易水道調圧槽」施設脇あたりから那須ハイランドGCの敷地内を通って乙女の滝ドライブインのトイレ裏手を通ったはずだ。その先林の中は道跡が残り、板室の一里塚が現存している。