がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

高尾塚@下塩原塩釜

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塩釜温泉のホテル明賀屋駐車場に「高尾塚」の碑がある。文化13年(1816)11月に建立されたこの碑は、正面に「高尾塚」、他の3面には江戸の儒学者「山本北山」による撰文が刻まれている。この碑は、塩原出身の二代目高尾太夫の没後150年に、その身を哀れんだ妙雲寺の住職と畑下温泉和泉屋の主人が、以前塩原に訪れたことのある山本北山に撰文を依頼し、高尾の生家の子孫「太七」が施主となって建てられたものだ。

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高尾(幼名志乃)は湯本村(現在の塩原元湯)に生まれ、3才のとき、一家は下塩原塩釜へ移り住む。生活が苦しい一家は、明賀屋の主人と妙雲寺の住職の計らいで塩の湯に湯治に来ていた江戸浜町の遊郭「三浦屋」の四郎左衛門夫妻に相談、美しく聡明で器量のいい志乃の将来を見込んで禿(かむろ)として引き取った。美貌もあり記憶力もよく、学問や芸ごとの教養を身につけ、たちまちに花魁になる資格を得る。明暦3年(1657)「振袖火事」により浜町三浦屋は全焼、16歳になっていた志乃は、養育の恩返しとして三浦屋再興のため遊女となり、吉原の太夫筆頭ともいうべき二代目「高尾」を襲名した。しかし、肺の病により一年余りで離籍し、浅草山谷の三浦屋別荘での療養生活に入るが、万治3年(1660)、隅田川で入水自殺をした、という説が最も信憑性がある。

才色兼備の名妓ゆえに落語や講談、歌舞伎のネタになり、また高尾太夫の名は代々襲名されるので、さまざまなエピソード・ゴシップがごっちゃになり諸説挿話を生み出した。隅田川吊し斬りで遺体が上がって葬られた高尾稲荷とか(骨壷・骸骨あり)、落籍され仙台で没した墓とか、当時は洒落で作ったのかもしれないけど、これだけ時が経っちゃうともう史実はどれなんだか。妙雲寺のお墓は分墓的なものでしょう。

高尾太夫・高尾塚については「塩原温泉郷土史研究会」 の「最新の研究成果」に詳しい。現地案内板打込みでお茶を濁すつもりが、こちらの報告書とあまりにも食い違いが多いため戸惑ったのですが、塩原高尾のドラマチックな生涯を伝えたくてUPしました。

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