がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

慶乗院の菊家紋入供養塔

湯王山 慶乗院 観音寺の菊家紋入供養塔を見てきた。



昭和35年(1960)、寺境内付近の整地作業を行っていたところ、画像右側の笠付墓石が出てきた。高さは1.5mほど、正面上部に十六弁の菊花紋章があり、その下に「道滅禅定門」「妙齢禅定尼」と男女二人の戒名、中央に「寛文元年(1661)丑年十月十八日」と刻まれている。

この話が地区の人々に伝わると、寺から100mほど東の共同墓地にも菊花紋の入った墓石が埋められている、と言う話を当時90歳になるおばあさんが言い出したという。言われた通りの場所を掘ってみると、同じ菊花紋の笠石墓石が出てきた。画像左側の墓石だ。こちらには二つの種子と二人の戒名が刻まれていた。



慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、宿営地の三斗小屋宿から大田原城を攻撃した会津藩兵が、井口を通過した際に、墓地内に菊花紋の墓石を見つけ、墓を壊して地中に埋めていった、という話をおばあさんは親から聞き伝え、埋められた場所まで正確に覚えていたのだ。



同年、宮内庁に墓石の調査を依頼するが、皇室関係と結びつく材料はみつからなかった。十六八重表菊は、鎌倉時代頃から皇室・皇族の紋として定着したのだが、江戸期においては、徳川の葵の紋とは対照的に、比較的自由にその図案を用いることが許されていたという。南北朝時代の影の皇室の末裔がこの地に?などと邪推するとちょっと楽しい。この墓石の前には「皇孫之御尊霊位追善供養」と書かれた塔婆が供えられている。御住職もロマンを愛する人なのだ。

参考:「西那須野町の宗教史」ほか