がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

三斗小屋宿 白湯山大鳥居竣工式

三斗小屋宿跡の白湯山行人道入口の大鳥居が北那須ライオンズクラブにより修復されたことは新聞報道で知っていた。今回はくせきさんのお誘いでその竣工式に参加することになった。

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先日の那須嶽登山でさんざこの日の天気を祈願してきたつもりだったのだが、前日夜は大雨、朝方も小雨が降る生憎の天気。同じ霊場とはいえ、やはり湯本口、ライバルの高湯山に頼む自体が間違いであったか。
深山ダムに集合、四駆に分乗して林道を上がり三斗小屋宿跡へ向かう。現地は深い霧ながらも、特に雨具は必要そうもない。

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北那須ライオンズクラブは、昭和50年代から文化事業として、三斗小屋宿跡の環境整備事業に取り組んでいる。そもそも宿内の通り沿いに並ぶ金灯籠、大灯籠、大日如来などは、そのほとんどが風雨災害、心ない者により破壊されていたのだが、北那須ライオンズクラブにより修復され、現在の美しい姿を保っているのだ。また年2回の宿内の下草刈りは恒例の行事となっている。上の画像は北条村百人講献納の大灯籠の前で、この大灯籠を修復した時の思い出話に花を咲かせる会員の方々。当時UNICがなく、土盛りして部品を引き上げていくという昔ながらの方法で積み上げたのだそうだ。そんな苦労話を笑って話すおじさん達の表情は本当にいい顔です。「おじさん」などと書いてしまったが、ライオンズクラブのメンバーだからして、皆、地元の企業の社長さんだったり重要な役職の方々なのだ。

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おおっ!!行人道入口の崖に、夢にまで見た完全な大鳥居が鎮座していた。かつて明治15年に、大鳥居の再建嘆願が出されたものの、その際は再建はなされなかった。へし折られた正面左の柱、笠石が苦土川の流れる崖下に落ちてしまい、当時の技術では修復ではなく、新たに作り直すしかなかったのか。それだけの浄財を集めることはピークを過ぎた白湯山神社(明治初め、廃仏毀釈で、高湯山>那須嶽神社となったのと同様、神社扱いになっていた)には無理だったのだろう。

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先導の行者を先頭に、白装束姿の参詣者たちが大鳥居をくぐって「ノゾキ」を下っていく姿が目に浮かぶようだ。
 サンギサンギ 六根清浄 身体堅固 お山は晴天ご繁昌!

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白湯山の帽子のおかげで(笑)多くの方とコミュニケーションが取れてよかった。土台の石柱の基礎は本当にしっかりしていて、とくに補強する必要はなかったとのこと。欠損した部品を修復するのに同じ素材の石材を探すのに苦労したそうだ。笠石中央の要石の絶妙な組み合わせで絶妙の重心を保つアーチ構造に驚いた。磯忍先生も指摘していたのだが、崖下に右側石柱、差貫が落ちている状況をみると、この大鳥居が破損する原因となった力は崖側ではなく、宿地側からかかったものなのではないだろうか。例えば、大鳥居近くの大木が鳥居に倒れてきて、とか。前述嘆願書には「奥羽戦争ノ際兵燹二カカリ」とあり、戊辰戦の被害を強調しているのだが。

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そんなこんなで式典開始。神主さんは黒磯神社の方。那須嶽信仰の件だし、より近い湯本温泉神社のほうがふさわしいのかな、とか思ったりもしたが、この地三斗小屋宿跡は旧黒磯地区だし、向こう那須湯本那須町、いろいろ大人の事情があるのかな。かつての高湯山・白湯山間の別当の利権対立って程じゃないですが。

前述、磯忍先生をはじめ、「白湯山信仰解読資料(室井三吉代吉文書)」を本にまとめた黒磯郷土史研の相馬賢四郎先生もいらっしゃいます。現那須塩原市長の栗山仁氏も来賓で参列、すごいです。俺は白湯山オタク代表で参加しましたが、本当にここに居ていいんでしょうか?

クラブの方に、次は御宝前、三山に通じる行人道の整備ですかねっ!と冗談交じりに要望を伝えたが、それは僕らがやるべき仕事なのかな。その際は各方面への手続きがスムースに通るようご協力をお願いします。