秋の会津中街道板室本村、白湯山一の木戸へ久々の訪問。
板室湯本道標碑
[正面] 右会津街道 三斗小屋江三里八丁
[左] 左ゆもと道従是二十八丁
[右] 天保七丙申年六月大吉日建
肥後大熊書(その他佐野屋、伊勢屋、江戸屋
和泉屋、大黒屋、小松屋、一井屋など世話人名)
[裏面] 「奥州津軽弘前品川町産遊圓」
「難病」「車来入湯千度」などの文字が
読めるが風化のため全文判読不能
注:那須塩原市の文化財のページに裏面の解読した文字が掲載
会津中街道の板室本村宿より板室(塩沢)温泉道への道しるべとして建てられたもの。裏面の碑文より「奥州津軽弘前品川町」の「遊圓」が板室温泉の湯治により「難病」を克服した感謝の意で地元世話人の協力により建立されたと推測される。「肥後大熊」とは百村光徳寺の十九世住職の書であるということ。
[伝承]みすぼらしい体の不自由な人が湯治に来たが、あまりにもきたないので共同湯の湯じりに別に湯つぼを設けて入湯させられた。ところが、湯治の甲斐あって立派に足が立ち、喜びのあまり大日堂の前で踊りを踊って帰郷し、再度板室を訪れて同じ病に苦しむ人々のために、この「ゆもと」への道しるべを建てたと伝えられている。
(「黒磯市の文化財」)
正面と左に方向がある以上、分岐点に建てられるのがふつうである。大日堂とペアで語られる以上、現在地にもともとあったとすると、西に行く道があったのか?50mほど南に行くと細い山道があり、旧集落入口あたりに出てくる。道標から20m南に「テンカラ」という民宿があるが、その位置が脇本陣、道を挟んだ向かいが本陣だったという。
がりつう 那須野の道標
ここの白湯山碑をモチーフにキャップを作った。
板室本村の大日堂
お堂の中の大日如来。
しずかに、着々と冬に向かっている。
板室本村のその先は乙女の滝。せっかくなので板室本村の一里塚を拝んで行こう。
公衆トイレのその裏に街道跡が残っている。カーブの手前の登山道は実際の街道跡ではない。しかしちょっと変化が。
街道跡の窪みがそのまま残っているのでわかりやすい。
板室本村の一里塚の西塚。
そして炭焼き窯として使われえぐられた東塚。炭が燃料として使われていた時代、木を伐り出して山林で炭焼きを行い、製品にしてから街に運んでいた。沼ッ原のほうにもこのような炭焼き窯の遺構があちこちにみられる。尾頭道でもこんな穴をいくつもみかけた。
昭和初期の写真集「那須野写真帖」より「麦飯坂上の生活」
— がりつう (@garitune) May 18, 2016
麦飯坂は会津中街道、沼っ原から三斗小屋宿に向かう湯川に下るつづら折 当時は炭焼きで生活してる人が山中に暮らしてたんだな 板室の一里塚も片方は炭焼き窯に利用されて半壊してる pic.twitter.com/ZnEQoroAwA
2008年の探索の沢名川渡渉の様子。
板室古戦場跡もソーラーパネルの電気畑になってしまった。
あの頃と変わったのは乙女の滝休憩所がオサレなコーヒーショップになっていたこと。
ONTARIO(オンタリオ)。本来は土日だけの営業らしいが、紅葉が見頃の時期なのでやってたのかな。グァテマラを頂いた。320円。セブンイレブンの珈琲が一番うまいと思っている俺にも違いがわかったぞ。
乙女の滝休憩所といえば里芋串とか鮎の塩焼きとか食べた記憶がある。ネットに昔のお店の情報が残っているな。スクショしとこう。
公衆トイレの裏手にアウトドアの施設が出来ていて、街道跡の入口が塞がれていた。なにより私有地だし、過疎化する板室本村を活性化するアクションを起こしている人たちを応援したい。街道の、昔の名残をいつくしむ行為は、現地で生活する人々にとってはエゴでしかないんだ。