がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

秋の板室本村2022

秋の会津中街道板室本村、白湯山一の木戸へ久々の訪問。

板室湯本道標碑
[正面] 右会津街道 三斗小屋江三里八丁  
[左]  左ゆもと道従是二十八丁  
[右]  天保七丙申年六月大吉日建
    肥後大熊書(その他佐野屋、伊勢屋、江戸屋
          和泉屋、大黒屋、小松屋、一井屋など世話人名)

[裏面] 「奥州津軽弘前品川町産遊圓」
    「難病」「車来入湯千度」などの文字が
     読めるが風化のため全文判読不能

注:那須塩原市の文化財のページに裏面の解読した文字が掲載

会津中街道の板室本村宿より板室(塩沢)温泉道への道しるべとして建てられたもの。裏面の碑文より「奥州津軽弘前品川町」の「遊圓」が板室温泉の湯治により「難病」を克服した感謝の意で地元世話人の協力により建立されたと推測される。「肥後大熊」とは百村光徳寺の十九世住職の書であるということ。
[伝承]みすぼらしい体の不自由な人が湯治に来たが、あまりにもきたないので共同湯の湯じりに別に湯つぼを設けて入湯させられた。ところが、湯治の甲斐あって立派に足が立ち、喜びのあまり大日堂の前で踊りを踊って帰郷し、再度板室を訪れて同じ病に苦しむ人々のために、この「ゆもと」への道しるべを建てたと伝えられている。
(「黒磯市文化財」)
正面と左に方向がある以上、分岐点に建てられるのがふつうである。大日堂とペアで語られる以上、現在地にもともとあったとすると、西に行く道があったのか?50mほど南に行くと細い山道があり、旧集落入口あたりに出てくる。道標から20m南に「テンカラ」という民宿があるが、その位置が脇本陣、道を挟んだ向かいが本陣だったという。
がりつう 那須野の道標

 


ここの白湯山碑をモチーフにキャップを作った。

 

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板室本村の大日堂


お堂の中の大日如来


しずかに、着々と冬に向かっている。

 


板室本村のその先は乙女の滝。せっかくなので板室本村の一里塚を拝んで行こう。


公衆トイレのその裏に街道跡が残っている。カーブの手前の登山道は実際の街道跡ではない。しかしちょっと変化が。

街道跡の窪みがそのまま残っているのでわかりやすい。

板室本村の一里塚の西塚。


そして炭焼き窯として使われえぐられた東塚。炭が燃料として使われていた時代、木を伐り出して山林で炭焼きを行い、製品にしてから街に運んでいた。沼ッ原のほうにもこのような炭焼き窯の遺構があちこちにみられる。尾頭道でもこんな穴をいくつもみかけた。



 

2008年の探索の沢名川渡渉の様子。

板室古戦場跡もソーラーパネルの電気畑になってしまった。




あの頃と変わったのは乙女の滝休憩所がオサレなコーヒーショップになっていたこと。
ONTARIO(オンタリオ)。本来は土日だけの営業らしいが、紅葉が見頃の時期なのでやってたのかな。グァテマラを頂いた。320円。セブンイレブンの珈琲が一番うまいと思っている俺にも違いがわかったぞ。

乙女の滝休憩所といえば里芋串とか鮎の塩焼きとか食べた記憶がある。ネットに昔のお店の情報が残っているな。スクショしとこう。

www.tochi-in.com

 

公衆トイレの裏手にアウトドアの施設が出来ていて、街道跡の入口が塞がれていた。なにより私有地だし、過疎化する板室本村を活性化するアクションを起こしている人たちを応援したい。街道の、昔の名残をいつくしむ行為は、現地で生活する人々にとってはエゴでしかないんだ。







蛇尾川の洗い越しと渡渉点

那須野ヶ原那須連山から流れる河川が作り出した複合扇状地である。その中央部に流れる蛇尾川(さびがわ、じゃびがわ)と熊川(くまがわ)の中流部は水無川で、水流は地中を流れている伏流水となっている。下流に向かうにつれ、堆積物が大きい石から細かい土や泥に変わるため水の浸透率が下がって、通常の地表に水が流れる川となる。

「図説那須野の地下水探査記録」によると、蛇尾川は大蛇尾川と小蛇尾川の合流地点から約1kmは地表を流れているが、その先右岸に緑色凝灰岩が露出し、それ以降両岸とも砂礫層で覆われ、表流水は減少、表流水の少ない時期でも伏流し始めてから約1km、多い時期でも約5kmで伏流し水無川になるという。標高460mから標高230mの約14kmの間は伏流し水無川になっている、とあり、水流が地表に現れるのは権現山丘陵東南方付近、とある。伏流水の大部分は透水層の基底部である深さ3mのところを流れ、表流水の少ない渇水期には半透水層と不透水層の境、約6mのところを流れているという。

今回は蛇尾川を渡る「洗い越し」とそのほかの渡渉点を紹介する。洗い越しとは道の上を川が流れるようにしてある場所のことであるが、蛇尾川の洗い越しは普段は伏流している地点であり、台風や大雨のあとでないと表流水がないので、普段は普通車が安全に通れるように重機で整地された河原を横断する道である。いわゆる「沈下橋」のようにコンクリートで施工された道路ではないため、大水で路面がえぐられてしまうことも多く、濁流が流れていて川底が確認出来ない場合は普通車での横断は危険である。



高林の蛇尾川の洗い越し(標高371m)


高林側からの河川への降り口 4年9月24日撮影


台風で大雨が降り、洗い越しが洗い越せるまたとないチャンスであるが、前述の通り普通車では洗い越すのは危険。路面の安全が確保されるまでは通行止めとなる。

蛇尾川の洗い越しに表流水が流れる場面は珍しいので、結構洗い越しファンが訪れている。そういう自分も来ているわけで。

 

この洗い越しを境に上流が上横林・高林、下流が洞島の境界線になっている。また右岸を蛇尾川沿いに通る旧会津中街道を境に西が横林、東が洞島の境界線になっている。
この渡渉点は会津中街道のルートとなっており、昔からある横林~高林間の最短ルートであった。



「図説那須野の地下水探査記録」によると、蛇尾川は平均川幅200m,、最大500mに及び、 乱流甚だしく、河道は40年間に400mも移動した場所も知られている。上横林より下流、両岸の無栗屋、横林、接骨木、北和田、上中野、遅沢、槻沢、関根、下中野、戸野内一帯はかつての蛇尾川の洪水時の乱流地域である。横林、接骨木の街道筋の集落はかつてはもっと蛇尾川沿いにあったものが頻発する洪水被害により移転したものだ。
蛇尾川上流部の表流水の流量は平時は1~5㎡/秒だが、集中豪雨等により河川が氾濫すると、平常の100倍に達することもあり、流下した「れき」の大きさも1mに達するものも見かけることがある。出水も減水もともに早い。

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高林の洗い越しから4キロほど下流に笹沼の洗い越しがある。

笹沼の蛇尾川洗い越し(標高306m)


R4年9月24日撮影

右岸には自由学園那須農場、左岸にはブリヂストンのテストコースがある。左岸は笹沼~波立(はったち)に続く道で、右岸は渡渉点から直線距離1.5キロで接骨木街道の「赤坂道(あかさかみち)」入口につながっていたのではないか。現在の通称「赤坂道」は三島ホール脇に出てくる道を言うが、赤坂から大貫~宇都野方面に通じる「たけさん道」があり、この道は大貫、宇都野方面からは「波立道」と呼んだ。



豪雨、台風による洪水は年に何回かあるが、出水後平常に戻る期間は約2週間ほどだという。

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大田原春雄先生によれば、蛇尾川のサビ、とは朝鮮語のsap(サップ)刃物や鋤、転じて砂鉄のを意味する言葉で、砂鉄の川の意味であろうという。町島の水口(みなぐち)とは砂鉄の純度を高めるための金流川(かんながわ)の水の取り入れ口であると。

那須野橋(標高265m)

原街道渡渉点付近から国道4号線の那須野橋


東関根渡渉点(標高250m)

蛇尾川は国道4号線の那須野橋を過ぎ、東関根付近まで来ると伏流していた川の流れが時期により地表に現れる。この付近にもかつては渡渉点があったとみられ、車両の通れるような洗い越しとして整備はされていなかったが、河川敷に降りられる作業道が作られていた。渡渉点でもあり、貴重な水を汲みに来る道でもあったのだろうか。

右岸の東関根と河川敷への降り口

以前から東関根と下中野を結ぶ渡渉点であったこの場所に新たに市道新南下中野線が建設され、蛇尾川にかかる令和大橋が作られた。橋自体は完成しているようだが、開通はまだのようだ。

令和大橋(標高250m)

令和大橋より蛇尾川上流方面 R4年9月30日撮影 

台風後で普段はない川の流れがみられるが、普段は川岸の断崖から伏流水がチョロチョロと流れ出して小さな泉が出来ている場所だ。

令和大橋より蛇尾川上流方面

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今泉大橋(標高239m)

今泉大橋より蛇尾川上流方面 R4年9月30日撮影

今泉大橋より蛇尾川上流方面 R4年9月30日撮影

今泉大橋より蛇尾川下流方面 R4年9月30日撮影

右岸の起伏が権現山(標高285m)から続く竜尾山(大久保山 標高281.6m)と呼ばれる丘陵で、通常はこの付近まで伏流している。



今泉大橋はライスラインの新設によりS48年8月新設架橋、それ以前の金田戸野内と三谷に通じる渡渉点に向かう道はこれだったのではないか。現在は藪に覆われてしまっているが、河川敷に降りる作業道があった記憶がある。

 

権現山から河川敷に降りてくる坂。


登谷橋(標高230m)


蛇尾川 登谷橋より上流方面

蛇尾川 登谷橋より下流方面

登谷(とや)は今泉の小字名。トヤとは山の鞍部、山中の猟師の小屋、出屋敷、新屋敷のことをいう。この渡渉点に出てくるルートが竜尾山丘陵の鞍部でのちのち切通したものか。今泉の川沿いの集落が新屋敷にあたるのか。たぶん新屋敷のほうではないか。

登谷橋は災害復旧工事により木橋が架設されたが、S50年3月に永久橋に新設架橋された。石林から今泉に向かう「カノ道」から竜尾山丘陵を切通してこの蛇尾川の渡渉点に通じている。

登谷橋手前の切通

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 今泉橋(標高226m)

蛇尾川 今泉橋より上流方面 R4年9月30日撮影


県道大原間大田原線上今泉線、沼の袋(紫塚)と今泉に通じる道路にある。昭和32年3月に木橋より永久橋に新設された。

蛇尾川 今泉橋より下流方面 R4年9月30日撮影



参考文献:「大田原市史後編」「図説那須野の地下水探査記録」渡部景隆、提橋昇

会津中街道 奥州駒返坂と下野駒返坂

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会津中街道中絵巻 部分

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会津中街道 観音沼から2.5キロほどアスファルト舗装された林道を行くと、「奥州駒返し坂」の説明板が設置されている。北側の斜面を上がっていくと元禄8年に建てられた「奥州駒返坂の碑」がある。

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奥州駒返坂の碑

旧道は野際新田宿を出て、林道を左側に逸れ、つづら折でこの碑の処まで上がってきたという。実際の旧道は現在の林道と付いて離れて、少しずつ高度を上げていったようだ。前述の会津中街道中絵巻にも「奥州駒返坂」の表記の脇に「山神」とお社の図とともに「奥州駒返」と書かれた石碑が描かれている。これがこの奥州駒返坂の碑と思われる。

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会津中街道中絵巻には下野側にも同様に「下野駒返坂」と書かれている場所がある。

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会津中街道中絵巻より

三斗小屋新宿を過ぎ、にを澤(湯川)を渡り長いつづら折の坂を上る。ここに「下野駒返坂」と書かれている。つまり下野駒返坂とは麦飯坂のことだ。
沼面原(沼っ原)の文字の左側に「山神」と「下野駒返」と書かれた石碑、お社の図が。もしこの絵図のとおりなら、下野側にも街道の開削当初に「下野駒返坂の碑」が建立されたのではないか。今のところそれらしき石碑は見つかっていない。

この付近は湿地帯であり何度も道筋が変わっているであろう。沼っ原湿原は、明治から昭和20年頃にかけて軍用馬の放牧地として利用されていたという。


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那須野写真帖より

那須野写真帖」は昭和初期大田原町の写真館が作製した県北の町村の主要な施設や名所を網羅した写真集。三斗小屋宿とその周辺のトピックも思いのほか取り上げている。その中に見つけた写真がこれだ。キャプションに「竹の柱に笹の屋根 手鍋下げても、という麦飯坂上の生活」とある。まさに昭和初期の沼っ原湿原周辺付近の様子なのだが、多分炭焼きを生業として暮らす人達の仮小屋を写した写真なのではないか。百村山麓から板室、三斗小屋の旧道沿いのそこかしこに炭焼き窯跡の穴が散見される。

 

御判石を観に行く その2

その1から続く

さて肝心の御判石(ごはんいし)だが、先ほどからちらちらと写り込んでいるのにお気づきだろうか。

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男鹿川の水量が増えて、先端だけが水面から顔を出している。

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橋脚脇の川岸から。右が御判石で左が万歳橋の橋脚に使われた石だ。記事の写真を見ると、もっと水量が少なければ、御判石と橋脚石に向かって堆積した砂利で高くなっている部分があり、床板の落ちた橋梁の街道跡遺構の向う側によじ登らなくても近くに行けたようだ。

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湖畔亭ほそいさんで見せて頂いた写真。御判石は横倒しになっているというが、高さ10mもある巨石だ。砂利が堆積して埋もれてしまっているのか。突き出ているのは頭頂部なのか下部なのか。頭頂部の東西南北の刻字は確認できたのだろうか。

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大正~昭和初期に流通した史蹟を案内する古絵葉書。この俯瞰からのショットは近代の「會津西街道」、1877(明治10)年に完成し、1956(昭和31)年の五十里ダム完成とともに湖底に沈んだ道路上から撮影したもののようだ。

完成間もない1878年にこの街道を通ったイザベラ・バードも「私は、日本でこれ以上に美しい場所を見ることはできないだろうと思う」とこの渓谷沿いの景色を絶賛している。「日本奥地紀行」では五十里宿訪問のシーンの前に「広い谷間に下ってゆくと、静かな渓流は物さわがしく流れる鬼怒川と合流する」と「海跡」の大きな河原の描写も出てくる。旧街道はやはり段丘下を通っていたのか。

完訳 日本奥地紀行1―横浜―日光―会津―越後 (東洋文庫)

完訳 日本奥地紀行1―横浜―日光―会津―越後 (東洋文庫)

 

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御判石と並ぶようにたたずむ万歳橋の台座石。万歳橋とは江戸期、会津西街道に対抗する小佐越新道側の勢力が作った橋。会津西街道側勢力に御上の定められた御判石を台座にするなど!と現場で確認すればすぐわかる嘘で難癖をつけられ、川上に60mほど場所を変更して架けられた際の台座石がこちら。

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湖畔亭ほそいさん提供

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同じ石を上流側から。右岸に渡渉してから南下して川治に向かうのだが、川沿いにへつりがあったのか、あるいは段丘上に登っていくのか。

段丘上に見えるのはR121の御判橋。俯瞰でこの場所を見下ろすと、

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こんな感じに見える。

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橋のたもとに一台だけ車が置けるスペースがある。川沿いの見下ろすベストポジションの部分の雪が掻いてあった。




御判石を観に行く その1

1月8日下野新聞五十里ダム湖底の歴史的遺構の記事が掲載されてから しばらく休みが合わず、やっと1月20日になって現地を訪れることが出来た。あれから降雪なく良い天気が続いたので、安全に現地に辿り着くことが出来た。しかしその天気の良さが裏目に出ることになろうとは。

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海尻橋から下流、御判石方面 

新聞に掲載されていた11月の写真と比べ男鹿川の水量が多い。ここ数日の天気で山に降った雪が解けて男鹿川に注いでいるのだろうか。

湖畔亭ほそいの向かい側の窪地に「ちびっこ広場」という公園がある。布坂山の半島を貫くように刻まれた「掘割」の跡。硬い岩盤に阻まれ水路工事は完成に至らなかった。

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布坂山(腹切山)にあった六左の墓は平成23年にここ掘割の広場に移設された。

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ちびっこ広場からスロープを下りてきた。通常のダムの水位ならもう水に浸かっている位置。

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上の画像の右側の岩壁。これは江戸時代の掘割の工事の際に掘削されたものだろうか。

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左岸の段丘上を進んでいく。

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幅が狭くなっていく。これはまさしく新聞記事の写真にあった場所だ。

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その先は橋梁の床板が落ちてしまっている。石積で覆われた法面。あちら側の突端には親柱が残っている!橋名板も残っているのだろうか?

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橋脚のたもとから。向う側に登って親柱を確認したいが、雪もあるし安全に戻ってくる自信がない。

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これが記事中にあった1877(明治10)年~1956(昭和31)年に使われた街道跡か。

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5万分の1地形図「川治」1912(明45)測図 に加筆

古地形図をみると男鹿川左岸の道路には「會津西街道」と書かれている。川治の消防署のところから分岐する旧道がそれか。
掘割部分に描かれている点線は道幅の狭い道があったってことだけど、これがかつての一応開通した水路の跡ということだろうか。古五十里湖の水位を調整する役割を最小限果たした水路の滝があったらしい。

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明治初期になっても掘割の硬い岩盤を掘削することは出来ず、布坂山の半島をぐるりと巻くような形で北上している。「572.80」地点より北は現在の道路のような気がするが、半島部分はこの湖底から一段高くなった部分を行くのか?あのガードレールが見える高さまで上がらねばいけないのだ。湖畔亭ほそいの駐車場奥のゲートは半島上の高台に上がる道?現在の道路に上がってくる取付きが湖畔亭ほそい付近にあったのではないか。

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この位置が当時の路面の高さと思われる。海尻橋のところにはすでに橋が架けられ、湯西川へ向かう道路が作られているが、橋梁はもっと低い位置にかかっていたのだろうか。まだまだわからないことが出てくるなあ。

その2へ

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歴史的遺構、五十里ダム湖底から出現

下野新聞の1面に五十里ダム海尻橋附近の遺構についての記事が掲載された。

f:id:gari2:20210922190731j:plain下野新聞2018/01/08の記事から

歴史的遺構、湖底から出現 17年ぶり五十里ダム(日光)抜水 街道跡や境界の巨石
 取水設備の改修工事に伴う日光市川治温泉川治の五十里ダムの抜水作業が7日までに終わり、湖底に沈んでいた街道跡や江戸時代の領地の三方境を示した天然の巨石「御判石」といった歴史的遺構が17年ぶりに姿を現している。明治時代の旅行記などに登場するこの歴史的な景観は、3月に再び水没する。国土交通省五十里ダム管理支所によると、以降の抜水計画はなく、今回が遺構を見られる最後の機会になる可能性が高いという。

 工事は昨年10月に始まった。1877(明治10)年~1956(昭和31)年に使われた街道跡や御判石(高さ約10メートル)の遺構は、抜水後のダム湖底に流れる男鹿川左岸に位置している。同市西川の国道121号会津西街道)の御判橋上から見渡せる。 

 管理支所によると、ダムは56年に完成。抜水は3回目で、2001年までの3年間にわたった前回以来となる。夏季の渇水期でも遺構を見ることはできず、「人為的な方法で水位を下げないと見られない光景」という。  会津西街道の歴史に詳しい市文化財保護審議会委員の大塚建一郎(おおつかけんいちろう)さん(61)=日光市藤原=によると、街道跡は1877年11月、現在のダム東側に整備された同市川治温泉高原と同市五十里を結ぶ道(距離約6.5キロ)。ダム西側にあった険しい山道を避け、人々の往来や物流を円滑にしたとされる。 
 78年6月には著書「日本奥地紀行」で知られる英国人旅行家イザベラ・バードも通行。当時の男鹿川沿いの景観を「日本でこれ以上に美しい場所は見られないだろう」などと紀行に記述している。
 街道跡沿いにあるのが、過去に観光名所として知られた三角形状の御判石。「日光山麓史」などの著書もある歴史家 田辺博彬(なたべひろあき)さん(72)=日光市板橋=は「1762年に宇都宮藩と会津藩、日光神領の三方境として決められた矢印」と説明する。ダム完成により街道と共に湖底に沈み、横倒しの状態になっている。

日光・五十里ダム 湖底の遺構出現
街道跡景観 最後の機会?「後世に記録を」識者訴え
 設備改修工事に伴う抜水作業で日光市五十里ダム湖底に17年ぶりに現れた街道跡などの遺構。この景観を見られるのは最後となる可能性が高いだけに、市内の識者らは歴史的な背景を踏まえ、後世に記録を残す重要性などを訴えている。
 通常は水深約30mの地点に沈む街道跡。1875年と77年、地元の当時の高原村や藤原村は街道整備の要望書を県に提出した。県に2千円を借金した上で石垣を築き、ダイナマイトで巨岩を爆破する難工事の末、完成させたという。
 市文化財保護審議会委員の大塚健一郎さん(61)=日光市藤原=は「近代日本でも全国的に早い『有料道路』だった」と語り、「会津の人々は早く関東にコメを届けたいし、地元の村々も生活向上に必要な道路だった。借金までしたのは先人の先見性や熱意を感じる」と説明する。
 村々は交代で門番を置き1人5厘、馬1頭1銭5厘の通行料を徴収。5厘は当時、あんパン1個、現在の約100円に相当し、借金は10年後に無事完済されたという。
 一方、街道跡沿いの御判石は、おにぎりのような形で、過去には「握飯(むすび)石」とも呼ばれた。この巨石を巡り、江戸末期の1854年4月と5月、付近の男鹿川に架けられた万歳橋の打ち壊し事件が連続発生した。
 江戸時代の主要街道だった会津西街道側の村々は、三方境の貴重な御判石が台座にされたと勘違いし、5カ村計30人がのこぎりやおので橋を破壊。残骸を川に投げ入れ、橋を架けた小佐越新道側の村々が驚いたという古文書が残る。 
 実際に橋の台座に使われたのは、御判石の隣の石と伝わる。歴史研究家田辺博彬(なたべひろあき)さん(72)=日光市板橋=は「街道を巡る経済活動で、勢力を伸ばす小佐越新道の村々と対立する会津西街道側の焦りが分かるトラブル。藤原地域は街道の歴史を刻む場だった」と解説する。
 ダム湖底に現れた遺構が見られるのは2月末まで。田辺さんは「史実をしっかりと把握し、改めて記録などで後世に伝えることが大切だ」と強調している。

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 藤原町史通史編より 藤原地域の街道

従来の会津西街道は、五十里宿から男鹿川左岸の高原越えの高原新田~藤原~大原~高徳で鬼怒川を渡船で大桑に至るルートである。小佐越新道は、五十里宿から男鹿川右岸を通り、湯西川を渡り一旦右岸の高原新田地内に出て、御判石近くを左岸に渡り(ここが万歳橋)そのまま男鹿川沿いを南下、川治村~石渡戸~丸山から滝村に至るという高原越えにも劣らぬ険しいルート。何度かの改修をもって回米輸送の主要ルートに昇り詰める。万歳橋は小佐越村など新道を推進していく側が作った。これらは江戸期の街道の話で、記事中の石積みの街道遺構というのは近代に入り明治初期に作られた男鹿川左岸を通る[新]会津西街道のことのようだ。

小佐越新道の正確なルート取りに関してはイマイチ自信がないので地図上に落としたことはないのだが、藤原町史通史編に出てくる地図を引用しておく。この地図を見ると海尻のところは堀割の部分を男鹿川左岸に上がってくるようになってる。

 新聞記事の掲載写真の通りなら、今なら五十里ダム湖底に立つことが出来て、実際に御判石(ごはんいし、と読むのが正しいようだ 形もそうだけど、ごはん石からの握飯(むすび)石なのねw)を真近で観ることが出来るのではないか。そして近代に整備された旧街道の遺構も・・。さっそく計画を立てよう。

 

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笹野曽里の街道跡の現状

「天空の古道 会津中街道山歩き旅2017」の参加者の方から、笹野曽里の一里塚附近の街道跡の状況を伺って、気になったので確認してきた。

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畑脇の雑木林が拓かれ太陽光パネルが設置されている。東塚のある雑木林まで伐採されてはいない。そういえば板室本村の古戦場跡も電気畑になってしまった。土地所有者が何に利用しようと文句の言いようはないが、那須の山々を背負った牧草地帯の風光明媚な情景のあちこちに作られるキラキラの電気畑をみるにつけ、観光産業を柱とする那須町がこういった開発にある程度の規制をかけないのはどういうことだろう。この場所のすぐそばには最終処分場があったりする。この附近は那須塩原市北部は水源地にもかかわらず産廃銀座と呼ばれる最終処分場が集中するエリアになっている。合併以前の話なので当時どういう方針でこうなったのやら、政治的なことは興味ないけど。