今年で30回を迎える長泉寺の大護摩供・火渡り式に行ってきた。多氣山火渡り祭が今年で11回、花園の長泉寺は那須修験道昇龍講の講元である。
山伏入場
誓願の儀
旅の行者
法斧の儀
法弓の儀
法剣の儀
床堅の儀
祈願
点火
お祓い
火渡り準備
火渡り式(火生三昧・かしょうざんまい)
田口トモロヲのマンガ家時代に興味があってオークションに廉価なものがあると入手している。絵は稚拙ではあるけどパンクでバイオレンスな作風がとても気に入っていてまさにトモロヲ節なのだ。サブカル黎明期、三大劇画誌と呼ばれる伝説の自販機本劇画アリス掲載というのも、ピンク映画やATGで凶暴な攻撃性をフィルムに叩きつけていた若松孝二監督を想起させてなんだかいい。
作品がまとまったものに単行本1冊と劇画アリス増刊の作品集があることは知っているけどそれらはまだ手元にない。別にコレクターでも転売の人でもないので、断裁自炊上等な同志と協力し合って、完全作品リストと全作品PDFを作ってとっとと収集活動を終えたいのだけれど。以下手持ちのリスト。
ガール&ガール共同G-7VOL.25(自販機本)「化石の街」16p
漫画快楽園1979年11月号 「オオカミは天地の匂い」16p
劇画アリス共同A-11(自販機本) 1979年 「肉体革命論序説」20p
劇画アリス A-2(自販機本) 1980年 「魔行魔’80 Part2」24p
劇画アリス A-5(自販機本) 1980年 「魔行魔’80 Part4死闘編」20p
漫画スカット1980年3月号 「極道ブギ」20p
Vコミック1984年5月号 「牝豚を抉れ!!」18p
月刊漫画ガロ1986年9月号 入選作品「熱海の夜」(たぐちともろを)16p
月刊漫画ガロ1993年7月号 「爆裂肉ちまき」12p
さて肝心の御判石(ごはんいし)だが、先ほどからちらちらと写り込んでいるのにお気づきだろうか。
男鹿川の水量が増えて、先端だけが水面から顔を出している。
橋脚脇の川岸から。右が御判石で左が万歳橋の橋脚に使われた石だ。記事の写真を見ると、もっと水量が少なければ、御判石と橋脚石に向かって堆積した砂利で高くなっている部分があり、床板の落ちた橋梁の街道跡遺構の向う側によじ登らなくても近くに行けたようだ。
湖畔亭ほそいさんで見せて頂いた写真。御判石は横倒しになっているというが、高さ10mもある巨石だ。砂利が堆積して埋もれてしまっているのか。突き出ているのは頭頂部なのか下部なのか。頭頂部の東西南北の刻字は確認できたのだろうか。
大正~昭和初期に流通した史蹟を案内する古絵葉書。この俯瞰からのショットは近代の「會津西街道」、1877(明治10)年に完成し、1956(昭和31)年の五十里ダム完成とともに湖底に沈んだ道路上から撮影したもののようだ。
完成間もない1878年にこの街道を通ったイザベラ・バードも「私は、日本でこれ以上に美しい場所を見ることはできないだろうと思う」とこの渓谷沿いの景色を絶賛している。「日本奥地紀行」では五十里宿訪問のシーンの前に「広い谷間に下ってゆくと、静かな渓流は物さわがしく流れる鬼怒川と合流する」と「海跡」の大きな河原の描写も出てくる。旧街道はやはり段丘下を通っていたのか。
御判石と並ぶようにたたずむ万歳橋の台座石。万歳橋とは江戸期、会津西街道に対抗する小佐越新道側の勢力が作った橋。会津西街道側勢力に御上の定められた御判石を台座にするなど!と現場で確認すればすぐわかる嘘で難癖をつけられ、川上に60mほど場所を変更して架けられた際の台座石がこちら。
湖畔亭ほそいさん提供
同じ石を上流側から。右岸に渡渉してから南下して川治に向かうのだが、川沿いにへつりがあったのか、あるいは段丘上に登っていくのか。
段丘上に見えるのはR121の御判橋。俯瞰でこの場所を見下ろすと、
こんな感じに見える。
橋のたもとに一台だけ車が置けるスペースがある。川沿いの見下ろすベストポジションの部分の雪が掻いてあった。
会津藩、宇都宮藩、日光神領の三方境を示す御判石の頂上に刻まれた東西南北の文字をこの目で確認するための訪問だったのだが 腹切山から移設された六左の墓があるちびっこ広場まで御判石を重機で引上げるにはどのぐらいの費用がかかるのだろう 年末ジャンボの当選番号まだ確認してなかったな pic.twitter.com/p5kwJrgyN5
— がりつう (@garitune) 2018年1月20日
1月8日下野新聞に五十里ダム湖底の歴史的遺構の記事が掲載されてから しばらく休みが合わず、やっと1月20日になって現地を訪れることが出来た。あれから降雪なく良い天気が続いたので、安全に現地に辿り着くことが出来た。しかしその天気の良さが裏目に出ることになろうとは。
新聞に掲載されていた11月の写真と比べ男鹿川の水量が多い。ここ数日の天気で山に降った雪が解けて男鹿川に注いでいるのだろうか。
国
湖畔亭ほそいの向かい側の窪地に「ちびっこ広場」という公園がある。布坂山の半島を貫くように刻まれた「掘割」の跡。硬い岩盤に阻まれ水路工事は完成に至らなかった。
布坂山(腹切山)にあった六左の墓は平成23年にここ掘割の広場に移設された。
ちびっこ広場からスロープを下りてきた。通常のダムの水位ならもう水に浸かっている位置。
上の画像の右側の岩壁。これは江戸時代の掘割の工事の際に掘削されたものだろうか。
左岸の段丘上を進んでいく。
幅が狭くなっていく。これはまさしく新聞記事の写真にあった場所だ。
その先は橋梁の床板が落ちてしまっている。石積で覆われた法面。あちら側の突端には親柱が残っている!橋名板も残っているのだろうか?
橋脚のたもとから。向う側に登って親柱を確認したいが、雪もあるし安全に戻ってくる自信がない。
これが記事中にあった1877(明治10)年~1956(昭和31)年に使われた街道跡か。
5万分の1地形図「川治」1912(明45)測図 に加筆
古地形図をみると男鹿川左岸の道路には「會津西街道」と書かれている。川治の消防署のところから分岐する旧道がそれか。
掘割部分に描かれている点線は道幅の狭い道があったってことだけど、これがかつての一応開通した水路の跡ということだろうか。古五十里湖の水位を調整する役割を最小限果たした水路の滝があったらしい。
明治初期になっても掘割の硬い岩盤を掘削することは出来ず、布坂山の半島をぐるりと巻くような形で北上している。「572.80」地点より北は現在の道路のような気がするが、半島部分はこの湖底から一段高くなった部分を行くのか?あのガードレールが見える高さまで上がらねばいけないのだ。湖畔亭ほそいの駐車場奥のゲートは半島上の高台に上がる道?現在の道路に上がってくる取付きが湖畔亭ほそい付近にあったのではないか。
この位置が当時の路面の高さと思われる。海尻橋のところにはすでに橋が架けられ、湯西川へ向かう道路が作られているが、橋梁はもっと低い位置にかかっていたのだろうか。まだまだわからないことが出てくるなあ。
その2へ。
今年はまだ花市どこも行けてないんだけど。画像は特派員から12日の大田原花市の様子。ケバブで立ち飲みしたい・・。
栃木県北 花市・初市2018日程
「さくら市氏家花市」 1/7(日)13:00-21:00
氏家中心市街地大通り 毎年7日に開催
「初市(東那須野地区)」 1/8(月)11:00-15:00
JR那須塩原駅駅東口市営駐車場 毎年10日あたりに開催
「花市(西那須野地区)」 1/11(木)09:30-21:00
JR西那須野駅西口桜通り 毎年11日に開催
西那須野商工会
「花市(大田原地区)」 1/12(金) 10:00-21:00
大田原市役所通り(ベイシア入口から神明町交差点) 毎年12日に開催
「花市(矢板市)」 1/13(金)11:00-20:00
今年はベイシア矢板店駐車場にて 毎年13日に開催
矢板市観光協会
「花市(佐久山地区)」 1/14(日) 10:00-17:00
佐久山小学校通り 毎年14日に開催
「黒田原花市」 1/20(土)10:00-17:00
那須町役場前から相生町通り 毎年第三土曜日に開催
「黒磯初市(花市)」 1/27(土) 10:00-20:00
黒磯駅前通り(線路と平行の通り) 毎年第四土曜日に開催
「黒羽大花市(黒羽地区)」 1/28(日) 9:00-17:00
黒羽向旧駅前通り(旧さかいり前からR294) 毎年第四日曜日に開催