がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

御判石を観に行く その2

その1から続く

さて肝心の御判石(ごはんいし)だが、先ほどからちらちらと写り込んでいるのにお気づきだろうか。

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男鹿川の水量が増えて、先端だけが水面から顔を出している。

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橋脚脇の川岸から。右が御判石で左が万歳橋の橋脚に使われた石だ。記事の写真を見ると、もっと水量が少なければ、御判石と橋脚石に向かって堆積した砂利で高くなっている部分があり、床板の落ちた橋梁の街道跡遺構の向う側によじ登らなくても近くに行けたようだ。

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湖畔亭ほそいさんで見せて頂いた写真。御判石は横倒しになっているというが、高さ10mもある巨石だ。砂利が堆積して埋もれてしまっているのか。突き出ているのは頭頂部なのか下部なのか。頭頂部の東西南北の刻字は確認できたのだろうか。

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大正~昭和初期に流通した史蹟を案内する古絵葉書。この俯瞰からのショットは近代の「會津西街道」、1877(明治10)年に完成し、1956(昭和31)年の五十里ダム完成とともに湖底に沈んだ道路上から撮影したもののようだ。

完成間もない1878年にこの街道を通ったイザベラ・バードも「私は、日本でこれ以上に美しい場所を見ることはできないだろうと思う」とこの渓谷沿いの景色を絶賛している。「日本奥地紀行」では五十里宿訪問のシーンの前に「広い谷間に下ってゆくと、静かな渓流は物さわがしく流れる鬼怒川と合流する」と「海跡」の大きな河原の描写も出てくる。旧街道はやはり段丘下を通っていたのか。

完訳 日本奥地紀行1―横浜―日光―会津―越後 (東洋文庫)

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御判石と並ぶようにたたずむ万歳橋の台座石。万歳橋とは江戸期、会津西街道に対抗する小佐越新道側の勢力が作った橋。会津西街道側勢力に御上の定められた御判石を台座にするなど!と現場で確認すればすぐわかる嘘で難癖をつけられ、川上に60mほど場所を変更して架けられた際の台座石がこちら。

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湖畔亭ほそいさん提供

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同じ石を上流側から。右岸に渡渉してから南下して川治に向かうのだが、川沿いにへつりがあったのか、あるいは段丘上に登っていくのか。

段丘上に見えるのはR121の御判橋。俯瞰でこの場所を見下ろすと、

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こんな感じに見える。

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橋のたもとに一台だけ車が置けるスペースがある。川沿いの見下ろすベストポジションの部分の雪が掻いてあった。




御判石を観に行く その1

1月8日下野新聞五十里ダム湖底の歴史的遺構の記事が掲載されてから しばらく休みが合わず、やっと1月20日になって現地を訪れることが出来た。あれから降雪なく良い天気が続いたので、安全に現地に辿り着くことが出来た。しかしその天気の良さが裏目に出ることになろうとは。

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海尻橋から下流、御判石方面 

新聞に掲載されていた11月の写真と比べ男鹿川の水量が多い。ここ数日の天気で山に降った雪が解けて男鹿川に注いでいるのだろうか。

湖畔亭ほそいの向かい側の窪地に「ちびっこ広場」という公園がある。布坂山の半島を貫くように刻まれた「掘割」の跡。硬い岩盤に阻まれ水路工事は完成に至らなかった。

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布坂山(腹切山)にあった六左の墓は平成23年にここ掘割の広場に移設された。

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ちびっこ広場からスロープを下りてきた。通常のダムの水位ならもう水に浸かっている位置。

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上の画像の右側の岩壁。これは江戸時代の掘割の工事の際に掘削されたものだろうか。

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左岸の段丘上を進んでいく。

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幅が狭くなっていく。これはまさしく新聞記事の写真にあった場所だ。

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その先は橋梁の床板が落ちてしまっている。石積で覆われた法面。あちら側の突端には親柱が残っている!橋名板も残っているのだろうか?

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橋脚のたもとから。向う側に登って親柱を確認したいが、雪もあるし安全に戻ってくる自信がない。

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これが記事中にあった1877(明治10)年~1956(昭和31)年に使われた街道跡か。

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5万分の1地形図「川治」1912(明45)測図 に加筆

古地形図をみると男鹿川左岸の道路には「會津西街道」と書かれている。川治の消防署のところから分岐する旧道がそれか。
掘割部分に描かれている点線は道幅の狭い道があったってことだけど、これがかつての一応開通した水路の跡ということだろうか。古五十里湖の水位を調整する役割を最小限果たした水路の滝があったらしい。

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明治初期になっても掘割の硬い岩盤を掘削することは出来ず、布坂山の半島をぐるりと巻くような形で北上している。「572.80」地点より北は現在の道路のような気がするが、半島部分はこの湖底から一段高くなった部分を行くのか?あのガードレールが見える高さまで上がらねばいけないのだ。湖畔亭ほそいの駐車場奥のゲートは半島上の高台に上がる道?現在の道路に上がってくる取付きが湖畔亭ほそい付近にあったのではないか。

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この位置が当時の路面の高さと思われる。海尻橋のところにはすでに橋が架けられ、湯西川へ向かう道路が作られているが、橋梁はもっと低い位置にかかっていたのだろうか。まだまだわからないことが出てくるなあ。

その2へ

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黒田原花市2018

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黒田原の花市に行ってきた。このゆるキャラはみるひぃ?晩餐館の牛?いえいえ、大島地区の「しまたん」!かうわいい!!

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今まで役場前通りと認識していたが、ここは「相生町通り」というらしい。

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多少の引き延ばし感はあれど、なかなかの充実ぶり あなどっておりましたっ。

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縁起物の飾りも、高崎だるま白河だるまももちろんあります。

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唐揚げとたこ焼き、ピロシキとだっぱら汁で満足。やっぱり暗くなってから来たいなあ。

花市・初市2018日程

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今年はまだ花市どこも行けてないんだけど。画像は特派員から12日の大田原花市の様子。ケバブで立ち飲みしたい・・。

 

 栃木県北 花市・初市2018日程

 

さくら市氏家花市」 1/7(日)13:00-21:00
   氏家中心市街地大通り  毎年7日に開催

「初市(東那須野地区)」 1/8(月)11:00-15:00
    JR那須塩原駅駅東口市営駐車場  毎年10日あたりに開催


「花市(西那須野地区)」 1/11(木)09:30-21:00
    JR西那須野駅西口桜通り  毎年11日に開催
西那須野商工会

「花市(大田原地区)」 1/12(金) 10:00-21:00
  大田原市役所通り(ベイシア入口から神明町交差点) 毎年12日に開催

「花市(矢板市)」 1/13(金)11:00-20:00
  今年はベイシア矢板店駐車場にて 毎年13日に開催
矢板市観光協会


「花市(佐久山地区)」 1/14(日) 10:00-17:00
  佐久山小学校通り 毎年14日に開催

「黒田原花市」 1/20(土)10:00-17:00
  那須町役場前から相生町通り 毎年第三土曜日に開催

「黒磯初市(花市)」 1/27(土) 10:00-20:00
  黒磯駅前通り(線路と平行の通り) 毎年第四土曜日に開催

「黒羽大花市(黒羽地区)」 1/28(日) 9:00-17:00
  黒羽向旧駅前通り(旧さかいり前からR294) 毎年第四日曜日に開催


どんど焼きを観てまわる2018

今年1月12-15日は休みが取れないことが確定してるので、事前施工のトリノスを観て廻って本年度の報告としたい。

ネット上でみつけた情報をもとに黒磯の方京へ。

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大原間小学校の近く。子供会ごとでどんど焼きを運営するのは困難なご時世、子供たちの思い出になるようにおおきなコミュニティでどんど焼きを行うケースが増えてきた。

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昨年の場所が分譲地として造成中。隣のブロックの田んぼに移動したようだ。
この竹をみっしり立てるタイプは土屋のトリノスを思い出す。ワラを覆うタイプは火の粉が舞うので住宅密集地には不向きなのかも。

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すぐ後ろが那須塩原署。警察関係の方も参加されるのかしら。


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安定の箒川沿い金沢のトリノス。金沢高阿津橋たもと。

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この荒涼感がたまらない。川沿いでビュンビュン吹いたら河川敷野焼きしちゃいそうっていつも思うんだけど。それ以上延焼するものはなにもないからここなんだろうけど。

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宇都野橋のたもと、箒川沿岸運動広場のグラウンド。いままで大貫地区のトリノスだと思っていたのだが、ここのは宇都野地区のトリノスだと知りました。

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以前観たときはもっと大きく感じた印象が。近くで観れなかったのでそう感じたのかも。

 

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石上のトリノスは未造成。こちらは当日に施工と思われる。ここのトリノスはどデカくて野崎の陸橋からも見える。とにかく壮観なんだ。

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大山コミュニティの「どんどん焼きトリノス。旧西那須野の大山小学校学区の公民館グラウンドで毎年行われている。結構大ぶりなトリノスだ。

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12日の18時からの点火と看板に書いてあった。ぜひ近くのどんど焼きに出掛けてみてほしい。報告をお持ちしてます。








大田原神社の太子祭

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大田原神社の太子祭を観てきた。太子講といえば、このへんだと宗源寺でも行われているのを知っていたが、県北で一番大々的に行われているのが、ここ大田原神社の太子祭だ。毎年1月10日に執り行われる行事である。

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1月10日という日にちは知っていたのだが、何時から開式なのか全くわからなかったので、ほんとに朝イチでここ大田原神社に出向いたのだ。開式まで2時間以上あるw せっかくなので久々に大田原の市街地を歩いてきた。

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さすがに街中にはあちこちに今日の太子祭のポスターが貼られている。
太子講とは、大工や左官、今で言う建築関係や物作りの職人たちが、職能神である聖徳太子を信仰する講集団である。仕事始めにこの一年の無事故安全を祈願する儀式が太子講、太子祭というわけだ。

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なぜに聖徳太子が職能神として奉讃されているのか。聖徳太子といえば法隆寺の建立に関わり、また多くの寺院の建立伝承に登場する人物として建築の歴史での「開基は弘法大師」みたいな存在だということ。あわせて曲尺(かねじゃく)は聖徳太子の発明、みたいな起源説が追加されたりして。江戸時代ぐらいから職人の間で聖徳太子を大工の祖として、職能の神様として信仰する風習が広まったという。太子講はもともとは仕事始めの安全祈願とこの一年間の申し合わせや賃金の決め事を行う場だったようだ。

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屋台祭りのぶっつけを彷彿させるめっちゃ早い新囃子ドラムンベース!アガる!


定刻通り11時に花火があがり開式。

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狩衣に烏帽子姿の棟梁達を先頭に入場

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儀式で使われる4mの杉の丸太を場内に運び込む

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宮司による祈願

釿始之儀(ちょうなはじめのぎ)がはじまる。丸太を角材に仕立てる工程を模した儀式。

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墨矩(すみかね)・墨打ち

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鋸(のこぎり)

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斧で粗く平面を出す

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釿(手斧、ちょうな、刃が横に付いたオノ)でさらにはつり平らにする

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玉串奉納

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お昼ちょっと過ぎで終了。木漏れ日が差すものの、境内の太子前は寒い!小腹もすいて「たい焼きしろやま」に走るがすでに遅し、準備中の看板が。

歴史的遺構、五十里ダム湖底から出現

下野新聞の1面に五十里ダム海尻橋附近の遺構についての記事が掲載された。

f:id:gari2:20210922190731j:plain下野新聞2018/01/08の記事から

歴史的遺構、湖底から出現 17年ぶり五十里ダム(日光)抜水 街道跡や境界の巨石
 取水設備の改修工事に伴う日光市川治温泉川治の五十里ダムの抜水作業が7日までに終わり、湖底に沈んでいた街道跡や江戸時代の領地の三方境を示した天然の巨石「御判石」といった歴史的遺構が17年ぶりに姿を現している。明治時代の旅行記などに登場するこの歴史的な景観は、3月に再び水没する。国土交通省五十里ダム管理支所によると、以降の抜水計画はなく、今回が遺構を見られる最後の機会になる可能性が高いという。

 工事は昨年10月に始まった。1877(明治10)年~1956(昭和31)年に使われた街道跡や御判石(高さ約10メートル)の遺構は、抜水後のダム湖底に流れる男鹿川左岸に位置している。同市西川の国道121号会津西街道)の御判橋上から見渡せる。 

 管理支所によると、ダムは56年に完成。抜水は3回目で、2001年までの3年間にわたった前回以来となる。夏季の渇水期でも遺構を見ることはできず、「人為的な方法で水位を下げないと見られない光景」という。  会津西街道の歴史に詳しい市文化財保護審議会委員の大塚建一郎(おおつかけんいちろう)さん(61)=日光市藤原=によると、街道跡は1877年11月、現在のダム東側に整備された同市川治温泉高原と同市五十里を結ぶ道(距離約6.5キロ)。ダム西側にあった険しい山道を避け、人々の往来や物流を円滑にしたとされる。 
 78年6月には著書「日本奥地紀行」で知られる英国人旅行家イザベラ・バードも通行。当時の男鹿川沿いの景観を「日本でこれ以上に美しい場所は見られないだろう」などと紀行に記述している。
 街道跡沿いにあるのが、過去に観光名所として知られた三角形状の御判石。「日光山麓史」などの著書もある歴史家 田辺博彬(なたべひろあき)さん(72)=日光市板橋=は「1762年に宇都宮藩と会津藩、日光神領の三方境として決められた矢印」と説明する。ダム完成により街道と共に湖底に沈み、横倒しの状態になっている。

日光・五十里ダム 湖底の遺構出現
街道跡景観 最後の機会?「後世に記録を」識者訴え
 設備改修工事に伴う抜水作業で日光市五十里ダム湖底に17年ぶりに現れた街道跡などの遺構。この景観を見られるのは最後となる可能性が高いだけに、市内の識者らは歴史的な背景を踏まえ、後世に記録を残す重要性などを訴えている。
 通常は水深約30mの地点に沈む街道跡。1875年と77年、地元の当時の高原村や藤原村は街道整備の要望書を県に提出した。県に2千円を借金した上で石垣を築き、ダイナマイトで巨岩を爆破する難工事の末、完成させたという。
 市文化財保護審議会委員の大塚健一郎さん(61)=日光市藤原=は「近代日本でも全国的に早い『有料道路』だった」と語り、「会津の人々は早く関東にコメを届けたいし、地元の村々も生活向上に必要な道路だった。借金までしたのは先人の先見性や熱意を感じる」と説明する。
 村々は交代で門番を置き1人5厘、馬1頭1銭5厘の通行料を徴収。5厘は当時、あんパン1個、現在の約100円に相当し、借金は10年後に無事完済されたという。
 一方、街道跡沿いの御判石は、おにぎりのような形で、過去には「握飯(むすび)石」とも呼ばれた。この巨石を巡り、江戸末期の1854年4月と5月、付近の男鹿川に架けられた万歳橋の打ち壊し事件が連続発生した。
 江戸時代の主要街道だった会津西街道側の村々は、三方境の貴重な御判石が台座にされたと勘違いし、5カ村計30人がのこぎりやおので橋を破壊。残骸を川に投げ入れ、橋を架けた小佐越新道側の村々が驚いたという古文書が残る。 
 実際に橋の台座に使われたのは、御判石の隣の石と伝わる。歴史研究家田辺博彬(なたべひろあき)さん(72)=日光市板橋=は「街道を巡る経済活動で、勢力を伸ばす小佐越新道の村々と対立する会津西街道側の焦りが分かるトラブル。藤原地域は街道の歴史を刻む場だった」と解説する。
 ダム湖底に現れた遺構が見られるのは2月末まで。田辺さんは「史実をしっかりと把握し、改めて記録などで後世に伝えることが大切だ」と強調している。

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 藤原町史通史編より 藤原地域の街道

従来の会津西街道は、五十里宿から男鹿川左岸の高原越えの高原新田~藤原~大原~高徳で鬼怒川を渡船で大桑に至るルートである。小佐越新道は、五十里宿から男鹿川右岸を通り、湯西川を渡り一旦右岸の高原新田地内に出て、御判石近くを左岸に渡り(ここが万歳橋)そのまま男鹿川沿いを南下、川治村~石渡戸~丸山から滝村に至るという高原越えにも劣らぬ険しいルート。何度かの改修をもって回米輸送の主要ルートに昇り詰める。万歳橋は小佐越村など新道を推進していく側が作った。これらは江戸期の街道の話で、記事中の石積みの街道遺構というのは近代に入り明治初期に作られた男鹿川左岸を通る[新]会津西街道のことのようだ。

小佐越新道の正確なルート取りに関してはイマイチ自信がないので地図上に落としたことはないのだが、藤原町史通史編に出てくる地図を引用しておく。この地図を見ると海尻のところは堀割の部分を男鹿川左岸に上がってくるようになってる。

 新聞記事の掲載写真の通りなら、今なら五十里ダム湖底に立つことが出来て、実際に御判石(ごはんいし、と読むのが正しいようだ 形もそうだけど、ごはん石からの握飯(むすび)石なのねw)を真近で観ることが出来るのではないか。そして近代に整備された旧街道の遺構も・・。さっそく計画を立てよう。

 

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