がりつうしん

那須野ヶ原を中心とした話題と与太話、ほぼ余談。

歴史的遺構、五十里ダム湖底から出現

下野新聞の1面に五十里ダム海尻橋附近の遺構についての記事が掲載された。

f:id:gari2:20210922190731j:plain下野新聞2018/01/08の記事から

歴史的遺構、湖底から出現 17年ぶり五十里ダム(日光)抜水 街道跡や境界の巨石
 取水設備の改修工事に伴う日光市川治温泉川治の五十里ダムの抜水作業が7日までに終わり、湖底に沈んでいた街道跡や江戸時代の領地の三方境を示した天然の巨石「御判石」といった歴史的遺構が17年ぶりに姿を現している。明治時代の旅行記などに登場するこの歴史的な景観は、3月に再び水没する。国土交通省五十里ダム管理支所によると、以降の抜水計画はなく、今回が遺構を見られる最後の機会になる可能性が高いという。

 工事は昨年10月に始まった。1877(明治10)年~1956(昭和31)年に使われた街道跡や御判石(高さ約10メートル)の遺構は、抜水後のダム湖底に流れる男鹿川左岸に位置している。同市西川の国道121号会津西街道)の御判橋上から見渡せる。 

 管理支所によると、ダムは56年に完成。抜水は3回目で、2001年までの3年間にわたった前回以来となる。夏季の渇水期でも遺構を見ることはできず、「人為的な方法で水位を下げないと見られない光景」という。  会津西街道の歴史に詳しい市文化財保護審議会委員の大塚建一郎(おおつかけんいちろう)さん(61)=日光市藤原=によると、街道跡は1877年11月、現在のダム東側に整備された同市川治温泉高原と同市五十里を結ぶ道(距離約6.5キロ)。ダム西側にあった険しい山道を避け、人々の往来や物流を円滑にしたとされる。 
 78年6月には著書「日本奥地紀行」で知られる英国人旅行家イザベラ・バードも通行。当時の男鹿川沿いの景観を「日本でこれ以上に美しい場所は見られないだろう」などと紀行に記述している。
 街道跡沿いにあるのが、過去に観光名所として知られた三角形状の御判石。「日光山麓史」などの著書もある歴史家 田辺博彬(なたべひろあき)さん(72)=日光市板橋=は「1762年に宇都宮藩と会津藩、日光神領の三方境として決められた矢印」と説明する。ダム完成により街道と共に湖底に沈み、横倒しの状態になっている。

日光・五十里ダム 湖底の遺構出現
街道跡景観 最後の機会?「後世に記録を」識者訴え
 設備改修工事に伴う抜水作業で日光市五十里ダム湖底に17年ぶりに現れた街道跡などの遺構。この景観を見られるのは最後となる可能性が高いだけに、市内の識者らは歴史的な背景を踏まえ、後世に記録を残す重要性などを訴えている。
 通常は水深約30mの地点に沈む街道跡。1875年と77年、地元の当時の高原村や藤原村は街道整備の要望書を県に提出した。県に2千円を借金した上で石垣を築き、ダイナマイトで巨岩を爆破する難工事の末、完成させたという。
 市文化財保護審議会委員の大塚健一郎さん(61)=日光市藤原=は「近代日本でも全国的に早い『有料道路』だった」と語り、「会津の人々は早く関東にコメを届けたいし、地元の村々も生活向上に必要な道路だった。借金までしたのは先人の先見性や熱意を感じる」と説明する。
 村々は交代で門番を置き1人5厘、馬1頭1銭5厘の通行料を徴収。5厘は当時、あんパン1個、現在の約100円に相当し、借金は10年後に無事完済されたという。
 一方、街道跡沿いの御判石は、おにぎりのような形で、過去には「握飯(むすび)石」とも呼ばれた。この巨石を巡り、江戸末期の1854年4月と5月、付近の男鹿川に架けられた万歳橋の打ち壊し事件が連続発生した。
 江戸時代の主要街道だった会津西街道側の村々は、三方境の貴重な御判石が台座にされたと勘違いし、5カ村計30人がのこぎりやおので橋を破壊。残骸を川に投げ入れ、橋を架けた小佐越新道側の村々が驚いたという古文書が残る。 
 実際に橋の台座に使われたのは、御判石の隣の石と伝わる。歴史研究家田辺博彬(なたべひろあき)さん(72)=日光市板橋=は「街道を巡る経済活動で、勢力を伸ばす小佐越新道の村々と対立する会津西街道側の焦りが分かるトラブル。藤原地域は街道の歴史を刻む場だった」と解説する。
 ダム湖底に現れた遺構が見られるのは2月末まで。田辺さんは「史実をしっかりと把握し、改めて記録などで後世に伝えることが大切だ」と強調している。

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 藤原町史通史編より 藤原地域の街道

従来の会津西街道は、五十里宿から男鹿川左岸の高原越えの高原新田~藤原~大原~高徳で鬼怒川を渡船で大桑に至るルートである。小佐越新道は、五十里宿から男鹿川右岸を通り、湯西川を渡り一旦右岸の高原新田地内に出て、御判石近くを左岸に渡り(ここが万歳橋)そのまま男鹿川沿いを南下、川治村~石渡戸~丸山から滝村に至るという高原越えにも劣らぬ険しいルート。何度かの改修をもって回米輸送の主要ルートに昇り詰める。万歳橋は小佐越村など新道を推進していく側が作った。これらは江戸期の街道の話で、記事中の石積みの街道遺構というのは近代に入り明治初期に作られた男鹿川左岸を通る[新]会津西街道のことのようだ。

小佐越新道の正確なルート取りに関してはイマイチ自信がないので地図上に落としたことはないのだが、藤原町史通史編に出てくる地図を引用しておく。この地図を見ると海尻のところは堀割の部分を男鹿川左岸に上がってくるようになってる。

 新聞記事の掲載写真の通りなら、今なら五十里ダム湖底に立つことが出来て、実際に御判石(ごはんいし、と読むのが正しいようだ 形もそうだけど、ごはん石からの握飯(むすび)石なのねw)を真近で観ることが出来るのではないか。そして近代に整備された旧街道の遺構も・・。さっそく計画を立てよう。

 

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大田原市の道標と碑塔類調査 / 郷土歴史散歩の会

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昨年末東武の古本市で買った「大田原市の道標と碑塔類調査」。この郷土歴史散歩の会というのはよくわからないのだが、「下野の野仏」の大田原エリアの表の抜粋に、大田原春雄氏の「大田原の道標」と 佐藤栄一氏の「旧奥州街道水準標刻彫石造物の現況」、石上宿付近の会津中街道ルートに関して大いに参考になった束原昇氏の「おらがふるさと野崎道の史跡散歩」の各論文の抜刷り合本という感じの本だ。平成25年発行の本なのだが、各論文で紹介された塔碑の現状を紹介するわけでもないから、道標探索のガイドとして組んだ本なんだろう。

大田原春雄氏の「大田原の道標」の元になった「大田原市内の石仏を訪ねて」はライスラインも通っていない昭和50年にまとめられたものだった。おれが大田原春雄氏の「大田原の道標」と矢木沢誠司氏の「黒磯市の道標」を教科書に道標調査を始めたのが平成15年。あれから15年で消失したり移動された塔碑もいくつかあり、新しく見つけた道標もブログに書き留めはするけどHPをいじるには至らなかったり。なんとかせねば、とつぶやき続けて、もうすぐ元号が変わる。

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御判石@五十里海尻

江戸時代を通して、会津西街道・小佐越新道沿いの藤原地方は、3つの異なる系統の領主によって統治されていた。鬼怒川の左岸(高原新田・藤原村・大原村・高徳村)は宇都宮藩領、右岸(西川村、川治村・滝村・小佐越村・柄倉村)は日光神領海尻以北の三依郷六が村(横川村・上三依村・芹沢村・独鈷沢村・五十里村)は幕府の領地である天領になっていた。この3つの異なる領地の三方境の境界石が「御判石(ごはんいし)」だ。江戸時代中期の宝暦年間に、高原新田と五十里村の間で山境の争いがあり、幕府評定所の役人が来て境界を決め、今後こういった争いがないように三か村(高原新田・西川村・五十里村)の境にあたる五十里川(=男鹿川)の中央に大きな自然石を建てたという。

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藤原町史通史編より

御「判」は、わかつ・わかる・さだむる・さばく の意味で、境界を分ける、定める石という意味だ。

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古絵葉書 (川治温泉)史蹟を伝える御判石  星野屋印刷発行

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古絵葉書(鬼怒川温泉名勝)川治附近御判石 星野屋印刷発行

高さ四十尺(13m余)、ちょうど四角な深鉢を伏せたような形で、頭上の平面には「東西南北」に方位が刻み付けてあった。明治・大正と御判石は揺るぐことなく立っていて藤原地域の名所として親しまれてきた。ところが、昭和15年頃の台風による洪水で、その水勢に逆らいきれず横倒しになってしまった。その後五十里ダム建設による五十里湖の出現で湖底に沈んでしまい現在に至る。
昭和15年頃の台風の洪水で横倒しになってずっとそのまま、とのことだが、享保8年8月の古五十里湖が決壊した際の洪水のすさまじさは計り知れないものだったろうし、その時も瓦礫の中から御判石を見つけ出し、皆で元の位置に建て直したのではないか。上の古絵葉書の発行は大正から昭和初期ぐらい、絵葉書で紹介されるくらい当時も有名だったのだ。五十里ダムの最初の工事は昭和4年、その後昭和17年に10か年継続事業として2回目の工事が予定されていたが、ようやく戦後昭和31年(1956)になって完成する。

長らく五十里湖の底に沈んでいた御判石だったが、2017年の秋口からその姿を実際に観ることが出来る機会が訪れた。五十里ダム堤体に新たな放水路を作る工事を行うため、ダムの水位を下げる措置が取られているというのだ。

参考:「藤原町史通史編」「鬼怒川・川治 民話と旧跡」

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湯荘 白樺@塩原新湯

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本格的な冬の前に塩原の新湯に来た。今年は温泉ぶるまいに参加できなかったが、何度か日帰り湯で塩原温泉を訪れた。今年は既に11月21日に降雪したみたいだ。今回は共同湯でなく湯荘 白樺さんに入浴させてもらう。

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湯荘 白樺さんはもみじラインの道路から山際に一段高い位置に正面玄関があるのだが、内湯浴室はそこから三階にあがる。

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源泉名をみると「共同噴気泉 (なかの湯)」とある。すぐうしろの共同湯「中の湯」と同じ源泉であったか。

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総桧造りの浴室はなんともいい雰囲気。硫黄の香りを胸いっぱい吸い込んでいざ入浴。

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源泉は無色透明だが、空気に触れると乳白色の濁り湯に変化する。湯荘 白樺といえば湯泥パックだが、午前中のお掃除のすぐあとだったせいか、洗い場に湯泥の入ったバケツはなかった。

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建物のすぐ隣には源泉口があり、向う側には中の湯。窓の外には狛犬と鳥居が見える。裏のコンクリの向こうは爆裂噴火口跡。大地の息吹がふつふつと湧き出している。

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風向きによっては硫化水素ガスがたまってもおかしくない場所。空気清浄機がついてた。白濁湯に悶える最高のひととき。

八宝苑@共墾社

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旧4号沿い共墾社、共英小学校入口前の八宝苑。外観はヤバイがイチ押しの中華食堂。

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街なかに年季の入った食堂を見かけると気になって入ってしまう。だいたいのお店は後継者がいなくて老夫婦が営んでいたり、店主を亡くされて奥さんとお手伝いのお子さんがお店を守られていたりするケースが多い。経験則だと調理を引き継いでとりあえず営業してる感じのお店はだいたいイマイチ。シブイ外観内装だけど皆におすすめ出来る味ではないな、と記録は残してもブログやツイッターには上げなかったりする。
そんななかでも八宝苑はメニューのなんでもうまいし値段も据え置き。定休日と営業時間が謎なのも魅力のうちか。

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チャーハン 500円

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ラーメン 400円

となりのマツダから漏れるフレッツでフリーWi-Fi!こういういい店は残さにゃいかん!

この前板室街道通ったら、あーちゃんの居抜きの建物に「八宝苑」って手書きで描いてあったけどあれは2号店・・?


八宝苑
那須塩原市共墾社1丁目6−18

笹野曽里の街道跡の現状

「天空の古道 会津中街道山歩き旅2017」の参加者の方から、笹野曽里の一里塚附近の街道跡の状況を伺って、気になったので確認してきた。

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畑脇の雑木林が拓かれ太陽光パネルが設置されている。東塚のある雑木林まで伐採されてはいない。そういえば板室本村の古戦場跡も電気畑になってしまった。土地所有者が何に利用しようと文句の言いようはないが、那須の山々を背負った牧草地帯の風光明媚な情景のあちこちに作られるキラキラの電気畑をみるにつけ、観光産業を柱とする那須町がこういった開発にある程度の規制をかけないのはどういうことだろう。この場所のすぐそばには最終処分場があったりする。この附近は那須塩原市北部は水源地にもかかわらず産廃銀座と呼ばれる最終処分場が集中するエリアになっている。合併以前の話なので当時どういう方針でこうなったのやら、政治的なことは興味ないけど。

天空の古道 会津中街道山歩き旅2017

昨年に引き続き、会津中街道交流実行委員会主催の「天空の古道 会津中街道山歩き旅」に参加してきました。月初めにかなり激しいギックリ腰に見舞われ参加が危ぶまれましたが、不安を抱えつつもなんとか完歩することが出来た。
今回は会津側集合組と栃木板室温泉側集合組の2グループ。板室側集合組がバスで野際のスタート地点に到着したのが8時40分頃。合計80名ほどの参加者で出発。

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紅葉の落葉を踏みしめながらのトレッキング。

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大峠。このあと雨足は霧雨から小雨に変わる。雨粒として落ちたため、大峠である程度見通しがきいてよい景色を堪能出来たということか。

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大峠から三斗小屋宿跡までの会津中街道跡は非常に歩きやすく部分的に熊笹を下刈りすれば快適なトレッキングルートなのだが、3か所の渡渉、そして麦飯坂手前のでさらに湯川の渡渉があるため、単独、少人数での遡行はかなり難しい。安全ロープだけでザブザブ渡った方も多いはず。倒木での安全な橋掛けには経験と技術が必要だ。

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今回は那須山岳会の強力なサポートの元、万全の体制での実施でした。

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湯川渡渉点。わざわざこのスノコと鉄パイプを運んできて下さったサポートの那須山岳会の皆さんには感謝の言葉しかない。

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最後の最後、すっかりクタクタの状態での麦飯坂登り。大人数の隊列なのでかなりゆっくり、休み休みだったのでなんとか上がることが出来た。沼っ原から駐車場に上がる階段が一番きつかったかもしれない。

トレッキング終了後は板室温泉「幸乃湯」で「夜楽会」が行われた。佐藤淳一先生とスタッフの皆様、企画運営お疲れ様でした。

 

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